伝記
管道昇は、1262年に生まれ、元朝初期に活動した画家であり詩人である。字は仲姫といい、管仲姫、仲姫夫人としても知られる。中国史上最も有名な女性画家、書家とされ、墨竹画の歴史のうえでも傑出した人物である。呉興の高級官僚だった管仲の子孫の家系とされる湖州の地主の家に生まれ、先祖代々の土地で育って、十分な教育を受けた。父は生まれてすぐに優れた子だと考えて高く評価し、「太陽のごとく昇る高潔な道」を意味する道昇という名を付けた。
1286年、24歳のとき、士大夫で元朝初期随一の芸術家だった趙孟頫と結婚した。趙孟頫の前妻はすでに亡くなっており、夫妻は2人の息子と2人の娘をもうけて、趙孟頫の連れ子の息子1人と娘4人とともに育てた。湖州に庭付きの私邸を、徳清に近い東衡村に別荘を購入し、呉興に居を構えた。趙孟頫は朝廷で仕事をしていたため、夫婦は遠方まで旅することがあった。道昇は当時の主要な芸術家に会い、同時代の高位の女性が通常は行けない場所へも行く機会を得た。なかでも特筆されるのは、結婚した年から3年に及ぶ大都への旅行である。夫妻はともに禅を深く信仰し、師の中峰明本や、天目山の僧院に住む僧たちと親交を深めた。
道昇は1296年ごろに画家として、1299年に書家として活動を始めたと考えられている。竹や梅を繊細で優雅な筆の運びで描いた。竹はもともと男性的な性質をもつと考えられていた題材で、女性の画家が竹に焦点を当てるのは異例だった。そこで竹のそばに水辺を描き、女性的な含みを加えたとも考えられている。趙孟頫の仕事場からは、1301年以降の墨竹画の巻物が見つかっており、「筆と墨で遊ぶのは男性的な行為だが、私はこの絵を描いた。誰か私が罪を犯したと言うのではなかろうか。何と卑劣なことか」と自信たっぷりに書かれている。1308年に描かれた『煙雨叢竹』は、竹を孤立した枝ではなく、霧のようにかすむ風景の一部として茂みに描いた作品で、台北の国立故宮博物院にあり、本物と考えるのが妥当だとされる。
道昇の墨竹画は多くの称賛を得て、批評家は女性が描いたと分からないほど男性的で力強い筆致に驚いたという。皇帝アユルバルワダは、道昇と趙孟頫、息子の趙雍の書を巻物にまとめさせ、夫と妻と息子の全員が書に優れているのは稀なことだと評した。作品の一部には皇帝と姉セング・ラギの勅封が押され、皇帝の収蔵品となった。皇帝はまた、『千字文』の複写を注文している。多くの貴族の女性も作品を注文し、元の寺院のために仏教壁画も描いた。1317年、朝廷は道昇に「魏国夫人」の称号を授けた。道昇は自分の絵に詩を書き込み、その詩には夫や子への心配がユーモラスに表れている。趙孟頫が妾を囲おうとしたとき、道昇は短い詩『我儂詞』を書いて夫の目につく所に置いていった。当時、官吏や高級官僚が妾を囲うのは一般的だったが、この話題は二度と持ち上がらなかったようである。
1319年5月、道昇は長い闘病の末に58歳で亡くなった。大都を出て山東から帰宅する公船の上での死去だった。趙孟頫は妻の病気のため帰還の許可を求めており、妻の死と棺を伴う痛ましい帰路を親戚に知らせた手紙は、『酔夢帖』として知られる。趙孟頫は北部の気候への嫌悪を書き残しており、北部の粗食による栄養失調から脚気を起こして亡くなったともいわれる。趙孟頫は3年後に自らが亡くなるまで再婚せず、道昇が好んだ題材の竹を主に描いたという。墓石は封建領主と同じように作られ、高い名誉を与えられた。
同じ年に亡くなった人物
- フアン・デ・カスティーリャ (バレンシア・デ・カンポス領主) (1319年)
- ホーコン5世 (ノルウェー王) (1319年没)
- ベアトリクス・フォン・ルクセンブルク (1319年没)
- ルイ・デヴルー (1319年没)
- カマール・アッディーン・アル=ファーリスィー (1319年)
同じ地域に関係する人物
- 魏忠賢 (1627年没)
- 黄菊 (2007年没)
- 康生 (1975年没)
- ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ (1328年没)
- ジャン=ドニ・アティレ (1768年没)