伝記
マックス・ジャコブは、1876年7月12日、ブルターニュ地方のカンペールに生まれたフランスの詩人・小説家・劇作家・画家・美術評論家である。父ラザールは仕立屋、母プリュダンスはパリ生まれで、七人きょうだいの一人だった。祖父サミュエルはザールラント出身のユダヤ人で、一家はブルターニュの伝統衣装を制作する仕立屋として成功し、1867年のパリ万博にも出展した。1888年に姓をアレクサンドルからジャコブに改めた。家族はユダヤ教の儀式にあまり参加せず、本人はむしろカトリックに憧れたが、祖父に教わったユダヤ文化やドイツ文化、ブルターニュの風土は、後の作品に大きな影響を及ぼした。
想像力豊かな子どもだったが、動作が緩慢で注意力が散漫だったため、両親が心配し、14歳のころパリの高名な神経科医シャルコーに相談して、約1年パリで療養した。リセを優等賞で卒業して1894年に大学入学資格を得たが、植民地学校に入って3年後に退学し、家族を失望させた。パリに戻って法学の学士号を取り、1898年から母方の祖父の名で美術評論を書いたが、生計のため建具職人の助手や倉庫係、家庭教師などの職を転々とした。
1901年、画廊で開かれたピカソの初めての個展を見て魅せられ、のちに、ピカソは「私にとって芸術の世界そのものであった」と手紙に書いた。翌1902年から、ピカソは彼のアパートに身を寄せた。やがて二人はモンマルトルの木造家屋に入居した。暖房も水道もなく、アトリエが十部屋ほどある家で、洗濯物が干されていたため、セーヌの洗濯船を連想して「洗濯船」と名づけたのは彼であった。のちに彼はそれを「絵画の中央実験室」と呼んだ。ピカソが1907年に『アビニヨンの娘たち』を描き、キュビスムが誕生した場所として知られることになる。1904年には児童文学の短編集を自費で出版した。モンマルトルでアポリネールと親しくなり、1908年には、洗濯船で素朴派の画家アンリ・ルソーを称える会が開かれた。画商カーンワイラーは、「マトレル三部作」を出版して彼を支援した。ピカソ、モディリアーニ、ローランサンら多くの芸術家と親交を結び、亡くなるまで毎日のように手紙を書き、膨大な書簡集を残した。
1909年9月7日、洗濯船に戻ると壁にキリストが現れた。翌日、教会で洗礼を申し出たが、モンマルトルの退廃的な暮らしを知る司祭に断られた。1914年12月に映画館で2度目の見神を体験し、もはや神の存在は疑えないとして、1915年2月18日に修道会で洗礼を受けた。代父はピカソで、洗礼名はキプリアヌスである。1911年から1914年にかけて、修道士マトレルを主人公とする小説、詩集、戯曲の三部作を発表した。無意識や夢、幻覚を描く作品はダダイスムやシュルレアリスムの先駆けとされる。1917年の散文詩集『骰子筒』には、新しい散文詩の探求が結実した。詩は、旧来の作詩法から解放された自由な韻律や口語・俗語を用い、鋭い諷刺と洒落に満ちていると評されている。アポリネールとともにキュビスムを代表する詩人とされる。
1921年から1928年までと、1936年から1944年までは、ロワレ県に隠棲して、祈りと制作に専念した。ユダヤ系の出自のため、1944年にゲシュタポに逮捕され、ドランシー収容所に送られて、3月5日に肺炎で亡くなった。1949年には、作曲家アンリ・ソーゲを会長、ピカソを名誉会長とする「マックス・ジャコブ友の会」が結成された。
同じ年に亡くなった人物
- イーダ・ターベル (1944年没)
- ジョージ・ヘリマン (1944年没)
- Mehmed Abdulkadir Efendi (1944年没)
- アルセン・コツォイェフ (1944年没)
- セルゲイ・ブルガーコフ (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- クローヴィス2世 (フランク王) (658年没)
- ルイ3世 (西フランク王) (882年没)
- マリー・ド・ロアン=モンバゾン (1679年没)
- ルイ・クロード・ド・サンマルタン (1803年没)
- ジョゼフ・デュクルー (1802年没)