伝記
ステファン・ウロシュ2世ミルティンは、1253年に生まれ、1282年から1321年までセルビア王国の王として在位した。ステファン・ウロシュ1世の末子で、母はアンジュー家出身のヘレナである。兄ドラグティンが退位したことで急遽王位に就き、即位したときは29歳を超えていた。1282年のデジェヴォの集会では、ドラグティンがセルビア王位を弟に譲り、その代わりにミルティンがドラグティンの子ヴラディスラヴを後継者とすることが決まったという。
即位当時は、シチリア王シャルル・ダンジューや教皇マルティヌス4世らが反ビザンツの活動を積極的に進めていた。ミルティンはテッサリアの支配者ヨハネス1世と協力してマケドニアのビザンツ領を攻め、1282年にスコピエを初めとするマケドニア北部を獲得して、スコピエを首都に定めた。ビザンツ皇帝ミカエル8世は戦争の準備を始めたが、整う前に没し、翌1283年にはビザンツ領の奥深く、カヴァラにまで達した。1284年にはアルバニア北部とディラキウムを支配下に置いた。
1290年代はじめごろ、ブルガリアの王子シシュマンがジョチ・ウルスの有力者ノガイに従ってヴィディンを治めており、ノガイの派遣した軍がセルビアに侵入した。セルビアはこれを防ぎ、ヴィディンへ退くモンゴル軍を追ってシシュマンの領地を破壊した。しかしその後、ミルティンは娘のアンナをシシュマンの子ミハイルに嫁がせ、両国は同盟国となった。ヴィディンの破壊をめぐってノガイと対立したが、ノガイがセルビアを討つ軍を起こそうとすると、ミルティンは子のステファン・ウロシュを人質に差し出す条件で講和を申し入れた。後のデチャンスキと呼ばれるこの子は、1296年からノガイが戦死する1299年まで、従者とともにモンゴルの宮廷に預けられた。1299年にはビザンツとの和平が成立した。皇帝アンドロニコス2世は王女との婚姻を条件に休戦を提案し、当初は皇帝の姉妹エヴドキアが選ばれたが、彼女が結婚を拒んだため、わずか5歳の皇帝の娘シモニスがセルビアに嫁いだ。ミルティンはこの婚姻でドラグティンに対して優位に立てると考えて受け入れ、戦争で得た征服地は婚資としてそのままセルビアに属した。
この和平のあと、ミルティンとドラグティンの間に争いが起きた。戦いは散発的な停戦を挟みながら続き、ミルティンはデチャンスキをゼタの統治者に任命して、ヴラディスラヴではなくデチャンスキを後継者とすると表明した。1312年のガリポリの戦いでは、オスマン帝国と戦うアンドロニコス2世に援軍を送り、見返りにクチョヴォの町を割譲された。1314年にデチャンスキが反乱を起こすと、ビザンツの力を借りて鎮め、視力を奪ったうえでコンスタンティノープルへ追放した。ドラグティンの没後は、ベオグラードを含む領地の大部分を接収したが、1319年にハンガリー王カーロイ1世にベオグラードを奪回された。1321年の春にはミルティンの許しを受けたデチャンスキが帰国し、同年10月29日にミルティンは没した。短い内戦ののち、王位に就いたのはデチャンスキだった。
この治世にセルビアは、ハンガリーを除く東欧諸国のなかで最も強大な国に成長した。13世紀末には封建領主に条件付きの土地を与えるプロニア制が導入され、ビザンツの宮廷儀礼と文化が国内に入ってきた。ミルティンはグラチャニツァ修道院やアトス山のヒランダル修道院などを建てたことでも知られ、5回結婚した。正教会では、ドラグティンとともに聖人として祀られている。
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