伝記
ダンテ・アリギエーリは、1265年にフィレンツェで生まれ、1321年9月14日に没したイタリアの詩人、哲学者、政治家である。代表作の叙事詩『神曲』は、古代ローマの詩人ウェルギリウスとともに地獄、煉獄、天国を旅する物語で、ほかに詩文集『新生』がある。イタリア文学最大の詩人とされ、ルネサンス文化の先駆者に位置づけられる。
生家は、金融業を営む教皇派(ゲルフ)の小貴族で、父はアリギエーロ、母はベッラという。生後に聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け、「永続する者」を意味するドゥランテと名づけられた。ダンテはその慣習的な短縮形である。正確な誕生日は明らかでないが、『神曲』天国篇の記述から、1265年の5月半ばから6月半ばのあいだと推定されている。少年時代の確かな記録は乏しく、伝記の多くは『新生』や『神曲』の記述に頼っている。ラテン語の古典文法や修辞学、哲学などを学んだと思われ、『宝典』を著した哲学者で政治家のラティーニを、最も敬愛する師として『神曲』に登場させている。その後ボローニャ大学で哲学や法律学、修辞学、天文学などを学び、詩人カヴァルカンティと知り合って、詩作の意欲を得たとされる。
『新生』によれば、9歳だった1274年5月1日の春の祭りで、同い年の少女ベアトリーチェに出会い、魂を奪われる思いをした。9年後、18歳で二人はサンタ・トリニタ橋のたもとで再会し、彼女は会釈をして通り過ぎただけだったが、ダンテは恋に焦がれた。ダンテは1285年頃に許婚と結婚し、ベアトリーチェもある銀行家に嫁いだ。彼女は1290年に24歳で病死し、知らせを聞いたダンテは狂乱状態に陥ったという。生前の彼女をうたった詩をまとめて『新生』とし、『神曲』では彼女を、天国で主人公を助ける永遠の淑女として描いた。
グェルフィ党に属してフィレンツェの市政に参画し、1289年のカンパルディーノの合戦にも騎兵の一員として加わった。その体験は『神曲』地獄篇に生かされているという。勝利後に党が、富裕市民の「白党」と、教皇に近い封建貴族の「黒党」に分裂すると、ダンテは白党に属して要職に就き、1300年には最高行政機関の三人の統領の一人に任命された。ところが1301年、黒党が政変を起こして実権を握った。当時、教皇庁へ特使として市外にいたダンテは、欠席裁判で叛逆や公金横領の罪に問われ、追放と罰金を宣告された。出頭も罰金の支払いもしなかったため、永久追放となり、帰れば焚刑に処されることになった。以後、二度と故郷の土を踏むことはなかった。この辛い体験は、『神曲』に「他人のパンのいかに苦いかを知るだろう」と予言の形で記されている。
流浪の生活の中で、『饗宴』や『俗語論』、『帝政論』を著し、1307年頃には『神曲』の執筆を始めた。1318年頃からはラヴェンナの領主のもとに身を寄せ、子供たちを呼び寄せて暮らした。1321年に『神曲』を完成させた直後、外交使節として赴いたヴェネツィアからの帰路でマラリアにかかり、9月13日から14日にかけての夜に亡くなった。墓は今もラヴェンナにあり、フィレンツェは長く遺骨の返還を求めているが、ラヴェンナは応じていない。名声は生前は亡命地のラヴェンナにとどまったが、次第に広がり、1373年にはボッカッチョがフィレンツェ市の招きで最初のダンテ講演を行った。ルネサンス期のあとには久しく忘れられた時期もあったが、統一運動とナショナリズムの高まりの中で、1865年の記念祭で、国民的な詩人の地位を得た。
同じ年に亡くなった人物
- ステファン・ウロシュ2世ミルティン (セルビア王) (1321年没)
- クネグンダ・チェスカ (1321年)
- マリー・ド・ブラバン (1321年没)
- イブン・アル=バンナ (1321年)
- チャーク・マーテー (1321年没)
同じ地域に関係する人物
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- アルフレード・オリアーニ (1909年没)
- テオドリック (東ゴート王) (526年没)
- ジョバンニ・グァレスキ (1968年没)
- ヨハンネス・ベッサリオン (1472年没)