伝記
エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルは、1891年11月15日の日曜日の正午、ヴュルテンベルク王国のハイデンハイム・アン・デア・ブレンツで生まれたドイツの陸軍軍人である。最終階級は陸軍元帥で、貴族出身ではない、中産階級出身者として初めての陸軍元帥だった。父エルヴィンは実科ギムナジウムの数学教師で、祖父も教師であり、父も祖父も多少名の知れた数学者として、地元で尊敬されていた。母ヘレーネは、行政区長官で地元の名士カール・フォン・ルッツの娘で、父母ともにプロテスタントだった。ロンメル家は軍隊とほとんど関係がなく、軍部への有力な縁故もなかったため、教養市民階級の出身であることは、貴族主義的なドイツ陸軍で決して有利ではなかった。
子どものころは病気がちで大人しく、色白で髪の色も薄かったため、家族から「白熊ちゃん」とあだ名された。それでも本人は、庭や大きな庭園を走り回って遊べたので、幼いころはとても幸せだったと振り返っている。1898年に父がアーレンの実科ギムナジウムの校長となり、一家は転居した。1900年に父が校長を務める学校に入学したが、当初は劣等生で、怠け者で注意散漫だったという。読書にも運動にも興味がなかったが、10代になると突然活発になり、数学の成績が良くなって、スポーツにも関心を持った。飛行機の研究に夢中になり、14歳のころには親友と実物大のグライダーを作ったが、まともには飛ばなかった。航空機関連のエンジニアを志したものの、父に反対され、ヴュルテンベルク王国軍に入隊することになった。父が軍人の道を薦めたのは愛国心ではなく、堅実な職業に就いてほしいという現実的な理由からで、運動好きなので軍隊なら満足するだろうという期待もあった。
地元の砲兵連隊を望んだが入り込む余地がなく、工兵隊も狭き門で、結局もっとも入隊しやすい歩兵に落ち着いた。1910年7月19日に下級士官候補生として入隊し、1911年3月にダンツィヒの王立士官学校に進んだ。ここで、語学の勉強に来ていたルーシー・マリア・モーリンと出会い、卒業後も手紙で連絡を取り合って、1916年に結婚した。1912年1月27日に少尉に任官し、新兵の訓練を担当して、カリスマ性を発揮した。1914年8月に第一次世界大戦が始まると、第124歩兵連隊に復帰し、8月22日、ベルギー南部のフランス国境付近の村で初めて実戦に参加した。胃痛と疲労に苦しみながら、小隊を率いて突撃し、わずか4人で20人近いフランス軍部隊を撃破したとされる。その後は偽装や隠蔽を巧みに使って臨機応変に攻撃し、小隊長としての名声を確立して、9月初めには大隊の副官に抜擢された。
のちの第二次世界大戦では、フランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げ、広大な砂漠で圧倒的に優勢なイギリス軍をたびたび翻弄して、「砂漠の狐」と呼ばれた。敵のチャーチル首相が庶民院で「偉大な将軍と申してよい」と異例の賞賛を行った。ヒトラーにも寵愛されたが、その本質を知るに及んで、ドイツを救うために反旗を翻したとされ、最終的には自決を強いられ、1944年10月14日に没した。1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論が定着していたが、それ以降は軍事史家によって、軍人としての資質や能力が再検証されるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- ヴェルナー・フォン・ヘフテン (1944年没)
- 姜敬愛 (1944年没)
- マックス・ジャコブ (1944年没)
- フランツ・ライヒライトナー (1944年没)
- アルトゥール・フレプス (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルディナント・フライリヒラート (1876年没)
- フリードリヒ1世 (プファルツ選帝侯) (1476年没)
- エーバーハルト・ルートヴィヒ (ヴュルテンベルク公) (1733年没)
- ヨーゼフ・ディートリヒ (1966年没)
- パウル・ゲッツ (1962年没)