HISTORICAL PERSON · 1323年没

フリードリヒ1世 (マイセン辺境伯)

マイセン辺境伯、テューリンゲン方伯。父と不仲となり内戦を起こして父を捕らえ、ホーエンシュタウフェン朝の相続権も主張した。

生涯
1323年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州 / アイゼナハ)
出生地
ドイツ連邦共和国(アイゼナハ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州)

伝記

フリードリヒ1世は1257年に生まれ、マイセン辺境伯とテューリンゲン方伯をつとめた人物である。父はマイセン辺境伯アルブレヒト2世、母は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の娘マルガレータで、その次男にあたる。勇敢伯と噛跡伯という二つの渾名を持ち、後者には伝説がある。好色な父と仲違いした母が、旅立つ前に幼いフリードリヒの頬を噛み、フランクフルト・アム・マインへ去ったというのである。事の真偽はともかく、父とは不仲であり、兄ハインリヒ、弟ディーツマンとともに叔父のランツベルク辺境伯ディートリヒを頼った。

1268年、母方の従兄コッラディーノがイタリアで敗死すると、ホーエンシュタウフェン朝の相続権を主張し、エルサレム王やシュヴァーベン大公を自称した。1269年にはイタリア遠征を唱え、ロンバルディアやギベリン派の支持を引き寄せたが、計画は実行されなかった。1280年からはザクセン宮中伯の地位も得た。やがて父が異母弟アピッツにテューリンゲンを継がせようとしたことに反発して内戦を始め、1281年には捕らえられるなど苦戦した。1283年には兄ハインリヒが行方不明となった。1286年にはチロル伯マインハルトの娘アグネスと結婚した。1288年に父を捕らえて形勢を逆転し、翌1289年に和睦した。

1291年に従弟のフリードリヒ・トゥタが亡くなると、遺領をディーツマンとともに相続した。ところがローマ王アドルフは、マイセンなどはトゥタの死後に王権へ戻るべきだと考え、父アルブレヒトから借財の多いテューリンゲンを買い取った。兄弟は相続地を守るため再び武器を取ったが、土地を手放さざるをえなかった。1298年にアドルフが戦死してテューリンゲンが返還され、父もこのころ和解した。1300年にはエリーザベト・フォン・アルンスハウクと再婚した。これを1303年とする説もある。その後、ローマ王アルブレヒト1世がテューリンゲンの領有を主張し、独立を望む諸都市がこれを支持した。ヴァルトブルクで一族がアイゼナハの軍勢に囲まれたが、フリードリヒが救い出した。1307年5月31日のルッカの勝利は兄弟の救援を得たもので、王は新たな兵を集める前に没した。

同じ1307年にディーツマンが亡くなり、フリードリヒはテューリンゲンを相続した。諸都市はなお抵抗し、エルフルトは力で服させられた。皇帝ハインリヒ7世には従わなかったが、1310年に皇帝は彼の領地を封土として与えた。一方、ブランデンブルクとの争いは続き、辺境伯ヴァルデマールに捕らえられると、銀3万2千マルクと下ラウジッツの割譲を条件に、1312年のタンガーミュンデ条約で自由の身となった。1319年にヴァルデマールが、1320年にその従兄弟ハインリヒ2世が世を去り、アスカーニエン家が断絶すると、その隙に失った領土の大部分を取り戻した。ランツベルクと下ラウジッツは戻らなかったものの、全土に平和令を敷くことができた。

1321年に脳卒中を起こして体が麻痺し、1323年11月16日にアイゼナハで死去した。遺骨はのちにゴータのグリムメンシュタイン城へ移され、城の取り壊し後はフリーデンシュタイン城に葬られたが、墓はラインハルツブルンに築かれたともされる。最初の妻との子フリードリヒは1315年に先立った。再婚後の子のうち、エリーザベトはヘッセン方伯ハインリヒ2世の妻となり、フリードリヒ2世はのちにマイセン辺境伯を継いだ。

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