伝記
エドワード2世は、プランタジネット朝のイングランド王で、一二八四年四月二十五日にウェールズのカーナーヴォン城で生まれ、一三二七年九月二十一日に没した。父はエドワード1世、母は王妃エリナーで、四男であったが、三人の兄が幼くして亡くなったため世継ぎとなった。一三〇一年には父からウェールズ大公の称号を授けられ、以後この称号は皇太子に与えられる伝統となった。十歳のころ、同世代のピアーズ・ギャヴィストンを遊び相手につけられ、親密になったという。
一三〇六年にロバート・ブルースがスコットランド王への即位を宣言して反旗を翻すと、赤痢を患っていた父に代わって皇太子は鎮圧軍の先発として派遣された。この軍は一三〇七年五月にスコットランド軍に敗れた。父王は同年七月、出陣の途中で亡くなり、皇太子がそのまま即位した。父は、遺骸をスコットランド平定まで埋葬しないことやギャヴィストンの追放を解かないことなどを遺言したと伝わるが、エドワード2世は遺骸をウェストミンスター寺院に葬り、スコットランド出兵を中止し、ギャヴィストンの追放を解いて重用した。ギャヴィストンにはコーンウォール伯位を与え、恩典の配分にも関与させた。
一三〇八年一月にフランス王フィリップ4世の娘イザベラとフランスで結婚したが、その不在の間はギャヴィストンを摂政に任じた。諸侯は寵愛に不満を抱いており、反発は一気に高まった。二月の戴冠式でもギャヴィストンに王冠を捧げ持たせ、諸侯にわざと恥をかかせるふるまいがあったといい、王妃の叔父たちが怒って帰国した。一三〇八年の議会に諸侯は武装して集まり、追放を要求した。王は妥協してギャヴィストンをアイルランド総督に任じたが、翌年の議会で要求を受け入れる代わりに呼び戻す許可を得た。一三一〇年に改革勅令を起草する委員会の設置を認め、翌年秋の勅令では、ギャヴィストンの永久追放や、王を議会の管理下に置くことなどが定められた。一三一二年、ギャヴィストンは帰国して追放の取り消しを受けたが、激怒した諸侯に囲まれて降伏した。護送の途中でウォリック伯やランカスター伯トマスらに奪われ、私刑で斬首された。
一三一四年にはスターリングの救援のために出陣したが、バノックバーンの戦いでスコットランド軍に大敗し、権威はさらに低下した。政権はランカスター伯が握ったものの、積極的に指導せず孤立した。やがて宮廷ではヒュー・ル・ディスペンサーの父子が寵愛を得て台頭し、一三二二年三月のバラブリッジの戦いでランカスター伯を破って処刑すると、王とディスペンサー父子は権力を回復し、改革勅令を廃止した。以後五年ほど父子が国政を主導したが、専横への恨みは高まり、一三二四年には王妃の所領が没収されて、王妃も敵に回した。
その後、イザベラは皇太子とともに使節としてフランスへ渡り、ディスペンサー父子を追放しない限り帰国しないと言い張った。パリで、追放されたウェールズ辺境の諸侯ロジャー・モーティマーと親密になり、夫を廃位して皇太子に王位を継がせる計画を立てたとされる。一三二六年九月に王妃軍がサフォークに上陸すると各地で歓迎され、王は逮捕されてケニルワース城に幽閉された。翌一三二七年一月の議会で廃位が決議され、皇太子(エドワード3世)が新王となった。この廃位に議会の決議という手段が使われたことは、後世のイギリス立憲主義にとって大きな前例になったとされる。バークレー城に移された王は、救出計画を危険視した王妃の密命によって殺害されたと伝えられる。イザベラとモーティマーは一三三〇年まで、エドワード3世の摂政として権力を握った。
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