伝記
アドルフは、ヴィッテルスバッハ家に属し、一三一九年から一三二七年までライン宮中伯を称した人物である。一三〇〇年九月二十七日にヴォルフラーツハウゼンで生まれた。父は上バイエルン公でライン宮中伯のルドルフ1世、母はローマ王アドルフの娘メヒティルトで、その次男にあたる。兄のルートヴィヒは十代のうちに亡くなったため、アドルフが家の跡継ぎとなった。弟にはルドルフ2世とループレヒト1世がいる。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の甥でもあった。異名については、「単純な者」とも「誠実な者」ともいわれる。
父のルドルフ1世は、叔父にあたるルートヴィヒ4世と対立して敗れ、廃位された。その後、一三一九年に父が亡くなると、アドルフは弟たちとともに母方の叔父であるナッサウ伯ヨハンの後見のもとに置かれ、ライン宮中伯の称号を継いだ。しかし、若さにつけこんで、叔父のルートヴィヒ4世が宮中伯領を占領した。上バイエルンもルートヴィヒ4世が一人で治めることとなり、アドルフは名目上の宮中伯にとどまって、実際に統治を行うことはなかったとされる。
一三二〇年、エッティンゲン伯ルートヴィヒ6世の娘イルメンガルトと結婚した。夫妻は初めハイデルベルクに住み、ルートヴィヒ4世の監視下に置かれていた。一三二三年に、皇帝の激しい敵であった母メヒティルトが亡くなると、叔父との関係はよくなり、実権を取り戻す望みも生まれた。同じ年、オッガースハイムをライニンゲン伯から買い取ったともされる。夫妻がこの町に引き移ったのは、一三二五年とも一三二六年ごろともいわれる。アドルフは火事で焼けた町を建て直し、城壁と堀で囲み、市に昇格させた。
しかしアドルフは一三二七年一月二十九日、ノイシュタットで若くして急死した。遺体は、ハイデルベルク近郊のシェーナウにあるシトー会の修道院に葬られた。妻は子供たちとともにヴォルムス近くのリーベナウのドミニコ会修道院に身を寄せ、二十年後にそこで誓願を立て、一三八九年に亡くなって同じ場所に葬られた。幼い子供たちは、オーストリア側にあったナッサウ伯ヨハンの後見に置かれた。
子供のうち、長男のループレヒト2世(一三二五〜一三九八年)は、のちにプファルツ選帝侯となった。ほかにアドルフ、フリードリヒがいたが二人とも早くに亡くなり、娘はオルテンブルク伯マインハルト1世と結婚した。ループレヒト2世が幼かったため、アドルフの弟のルドルフ2世がライン宮中伯を継ぎ、一三二九年にはパヴィーア条約が結ばれて、宮中伯領は弟たちとループレヒト2世にゆだねられることになった。
同じ年に亡くなった人物
- フルク・ド・ヴィラレ (1327年没)
- ステーファノ・ヴィスコンティ (1327年没)
- ウォルター・ステュアート (1327年)
- アニェス・ド・フランス (ブルゴーニュ公妃) (1327年没)
- Shams al-Din al-Ansari al-Dimashqi (1327年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ1世 (プファルツ=ジンメルン公) (1480年没)
- エリーザベト・フォン・ゲルリッツ (1451年没)
- ピルミニウス (753年没)
- ルートヴィヒ9世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯) (1790年没)
- フリッツ・フィッシャー (2003年没)