HISTORICAL PERSON · 1329年没

マティルド (アルトワ女伯)

アルトワ女伯。1302年に父の戦死で領地を継ぎ、甥ロベール3世の遺言状偽造による横取りも退けた。夫の死後はブルゴーニュ伯領を摂政として治め、娘2人をフランス王家に嫁がせた。

生涯
1329年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(フランス)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

マティルド・ダルトワは、1268年ごろにパリで生まれたとされるアルトワ女伯である。マオー・ダルトワとも呼ばれる。アルトワ伯ロベール2世と最初の妻アミシー・ド・クルトネーの長女にあたる。生年は1269年か1270年ごろとする説もある。弟が二人いたが、次弟ロベールは2歳ほどで夭折し、長弟のフィリップは母の実家からコンシュ卿の地位を受け継いだ。マティルドはブルゴーニュ伯オトン4世の2人目の妻として結婚した。結婚の年は1285年とも1291年ともいわれる。夫は30歳ほど年上で、二人の間には、のちに王妃となるジャンヌとブランシュらが生まれた。

1298年、本来は父の相続人だった長弟フィリップがフュルヌの戦いの傷がもとで亡くなった。1302年7月11日には、父ロベール2世が金拍車の戦いで戦死した。マティルドはアルトワ伯領を相続して女伯となった。フィリップの息子で、当時15、16歳だったロベール3世は押しのけられた。アルトワの慣習では、男系の孫よりも、亡くなった伯の子が男女を問わず優先されたからである。この相続が、のちの伯母と甥の争いのもとになった。1303年には夫オトン4世が、コルトレイクの戦いの傷がもとで亡くなった。幼い子に代わって、摂政としてブルゴーニュ伯領を治めた。1307年に長女ジャンヌがフランス王フィリップ4世の次男フィリップに、翌1308年に次女ブランシュが三男シャルルに嫁いだ。

ロベール3世は、1309年に起こした訴訟に敗れた。10月9日にフィリップ4世がマティルドに有利な裁定を下し、1311年12月にはフォンテーヌブローでベテューヌ領を与えられた。1314年(1316年とも)には、ロベール3世の支援を受けた小貴族たちが反乱を起こしたが、すべて鎮圧した。同じ1314年には、ネールの塔事件が起きた。ブランシュは姦通の罪を問われてガイヤール城に、ジャンヌも加担を疑われてドルダン城に幽閉された。ジャンヌは証拠が不十分として釈放されたが、ブランシュは幽閉を解かれなかった。1317年にジャンヌの夫がフィリップ5世として即位すると、ジャンヌは王妃となった。この年の10月9日の日付で、ロベール2世がロベール3世を後継者に指名したという遺言状が偽造された。

1322年にシャルルが即位してブランシュも王妃となったが、マティルドとシャルルが代母と代子の関係にあり、近親婚にあたるとされて、婚姻は無効とされた。ブランシュはポントワーズ近くのモビュイソン女子修道院に入れられ、1326年に没した。1328年にシャルル4世が男子のないまま亡くなると、直系のカペー朝が絶えた。同じころの新たな訴訟で、ロベール3世の側が出した遺言状の偽造が明るみに出て、関わったジャンヌ・ド・ディヴォンは火刑にされた。ロベール3世は所領を没収され、イングランドへ逃れた。マティルドは1328年3月24日に遺言書を書き、1329年にパリで亡くなった。遺体はモビュイソン修道院の父の足もとに葬られ、心臓はパリのコルドリエ教会にある息子の墓に納められた。アルトワ伯領は長女ジャンヌが受け継いだ。

マティルドは権威主義的で不評を買うこともあったが、領主としての手腕に優れていた。困窮者や修道院、病院に多くの寄付をし、芸術を庇護して、みずから写した貴重な写本も多く遺っている。モーリス・ドリュオンの小説『呪われた王』では、主要な人物として描かれている。

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