伝記
コシラは、1300年12月22日に生まれたモンゴル帝国の第13代カアン、元としては第9代皇帝である。漢字では和世㻋と書き、廟号は明宗という。第7代カアンの武宗カイシャンの長男で、母はイキレス部の女性であった。祖母のダギはコンギラト部族の出身で、カイシャンの治世は、カイシャンと弟アユルバルワダ、その母ダギの間の緊張した対立の上に成り立っていた。そこでカイシャンは、アユルバルワダを皇太子に立てたが、その次のカアンはコシラとすると定めた。
1311年にカイシャンが急死し、アユルバルワダが即位した。すると、ダギと中書右丞相テムデルらコンギラト部族に連なる派閥が政権を握り、コンギラト部族の女性を母としないコシラに代えて、アユルバルワダの子シデバラを皇太子に立てた。コシラは周王に封ぜられ、1316年に辺境の雲南へ送り出されたが、配地に向かう途中の陝西で謀殺されかけた。これが関陝の変である。コシラは中央アジアのチャガタイ・ウルスに逃れ、居場所を知ったハンのエセン・ブカが出迎えた。以後はチャガタイ家の王族の後援を受けた。亡命中にカルルク部族のマイラダクと結婚し、1320年にトゴン・テムルが生まれた。
即位したシデバラが暗殺され、暗殺者を一掃した泰定帝イェスン・テムルのもとで、コシラを退けたテムデルの一党は政権から排除されたが、コシラは中央アジアにとどまった。かつて父カイシャンが駐留した、アルタイ山脈の西のふもとで勢力を固めていった。1328年の旧暦7月にイェスン・テムルが亡くなると、上都ではその遺児アリギバが、大都ではコシラの弟トク・テムルが擁立され、内乱が起こった。大都側にはキプチャク軍閥のエル・テムルや、アスト軍閥のバヤンらがつき、ゴビ砂漠以南の諸王や貴族、軍閥の支持を集めて勝利した。
内乱の報を受けたコシラは、チャガタイ家のエルジギデイらの後援を受けてアルタイ山脈を越え、モンゴル高原に入った。高原の諸王族や有力者は、コシラを正統なカアン位の継承者と認めてカラコルムに迎えた。コシラは、1329年2月27日にカラコルムの北で即位した。すでにカアンの座にあった弟のトク・テムルに、遊牧騎馬軍団の圧倒的な軍事力を背景に圧力をかけると、トク・テムルは4月3日に位を譲ると宣言した。1か月後には、エル・テムルが皇帝の玉璽を携えて高原を訪れ、大都側が歓迎する意を示した。コシラは5月15日にトク・テムルを皇太子に定め、側近を中書省などの要職につけた。
1800人を連れて大都へ向かい、8月26日、上都近郊のオングチャドでトク・テムルと会った。宴会が開かれたが、わずか数日後の8月30日に突然亡くなった。元の正史は暴力によって死んだと伝えている。権力を奪われることを恐れたエル・テムルが毒殺したとみられる。9月8日にトク・テムルが帝位に復した。この一連の騒乱は、トク・テムルの元号をとって天暦の内乱と呼ばれる。のちにはエル・テムル、その死後はバヤンが独裁権を握り、元末の軍閥政権の時代が始まった。后妃のうち、マイラダクとバブシャとの間に二人の皇帝が生まれ、トゴン・テムルは中国を統治した最後のモンゴル皇帝である。
同じ年に亡くなった人物
- エドアルド・ディ・サヴォイア (1329年没)
- マティルド (アルトワ女伯) (1329年没)
- ロバート1世 (スコットランド王) (1329年没)
- カザーレのウベルティーノ (1329年)
- ワッサーフ (1329年)