伝記
尹致昊は、1865年1月23日、忠清道牙山郡に、兵曹判書を務めた尹雄烈を父として生まれた李氏朝鮮末期から日本統治期にかけての朝鮮の政治家、教育者である。日本名は伊東致昊といい、号は佐翁である。幼いころは儒教を学んだが、父が妾の子であったため、科挙を受けることはできなかった。1879年に15歳で結婚し、1881年には17歳で魚允中の随行員として日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人となった。外務大臣の井上馨に謁見し、その斡旋で同人社に入学して、金玉均、朴泳孝、兪吉濬ら開化派の人々や、福沢諭吉らと親交を深めた。身分や嫡出、男女の差別が少ない日本社会と欧米の文物にふれ、以後、朝鮮の文明開化の必要性を信念とするようになった。
1882年5月に米朝修好通商条約が結ばれると、帰国してアメリカの初代駐朝公使の通訳官となり、朝鮮人初の英語通訳者となった。1884年12月の甲申政変には直接参加しなかったが、金玉均らと近かったため、失敗後に出国を決意し、1885年1月に上海へ着いた。アメリカの宣教師が建てた中西書院で3年間学ぶうちに、プロテスタントの宣教師らの影響を受け、中華思想から解放されて、朝鮮と清の立ち後れに強い批判意識を持つようになった。1887年4月3日に上海で洗礼を受け、プロテスタント信者になった。1888年11月に渡米し、ヴァンダービルト大学で神学や英語を学んで1891年初めに卒業し、その後エモリー大学で人文社会科学や自然科学を2年間学び、1893年秋に卒業した。一方で、アメリカ社会の人種差別にたびたび遭遇し、白色人種の傲慢さには否定的な考えを持つようになった。奨学金全額を支援するという提案もあったが、祖国のために働くとして帰国を選んだ。
1893年11月に再び上海へ行き、翌年8月に母校の教師となった。1895年2月に朝鮮に帰国すると、金弘集内閣で外務府協弁を務め、のち朴泳孝内閣で学部協弁を務めた。その後、李商在、徐載弼、李承晩らと独立協会を組織し、1897年8月に第2代会長に選ばれた。『独立新聞』の主筆、発行人でもあり、万民共同会の最高指導者として、1898年3月にはロシアの軍事教官や財政顧問の撤収を求める運動を展開した。守旧派はデマを流して独立協会を追い詰め、高宗と守旧派、ロシアと日本が結託していると見た尹致昊は、自分を皇帝の逆賊と見る民衆にも失望し、独立協会は失敗に終わった。
1906年に張志淵らと大韓自強会を組織して会長となり、教育の拡大と産業開発による自強独立を掲げたが、翌年に解散した。1907年には安昌浩らの新民会に参加して会長に選ばれ、平壌に安昌浩とともに大成学校を設立して校長に就任した。1908年10月には韓英書院を設立し、初代院長となった。1910年8月に日韓併合で韓国が日本の支配下に入ると、公職を辞し、男爵の爵位を断って、総督府の協力要請も拒み、京畿道開城府に引退した。1911年の105人事件では逮捕され、のち懲役10年を宣告されたが、1915年に出監し、親日への転向を新聞記者に語ったとされる。1919年の三・一運動では、独立運動家から求められた署名を断った。その後は京城のキリスト教青年会の会長や延世専門学校の財団理事などを務め、1945年12月6日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- クルト・フォン・デア・シュヴァルリー (1945年没)
- エーディト・フランク (1945年没)
- Anders Larsson (1945年没)
- ラグナル・エストベリ (1945年没)
- カール・ゲルデラー (1945年没)