伝記
ヴィドクン・アブラハム・ロウリッツ・ヨンセン・クヴィスリングは、1887年7月18日、ノルウェーのフィレスダールに、ルター派の牧師で系譜学者のヨン・ロウリッツ・クヴィスリングと、妻アンナ・カロリーネ・バングの子として生まれた。母は、グリムスタードで当時最も裕福といわれた船主の娘である。名の由来は、ラテン語風に作られた「クヴィスリヌス」で、デンマークの村に住んだ祖先が考え出したものだった。2人の兄弟と1人の姉妹がおり、控えめで静かだが、忠実で面倒見がよく、いつも愛想がよいと評された。父がドランメンの牧師だった1893年から1900年に、ここで初めて学校に通ったが、ブラツベルグ訛りのために同級生にいじめられた。1900年に一家はシーエンに移った。
人文科学と数学の才に恵まれ、1905年にノルウェー陸軍士官学校へ進み、入学試験では、250人の志願者のなかで最高の成績だった。翌年に陸軍大学校に移り、創立以来最高の成績で卒業して、国王ホーコン7世に会う栄誉を得た。1911年11月1日に陸軍参謀本部の将校となった。第一次世界大戦でノルウェーは中立を守ったが、平和運動を嫌っていた彼も、膨大な人命の損失には考えを動かされた。1918年3月に外交使節団の一員としてペトログラードに派遣され、ボリシェヴィキの強い社会掌握力に驚いた。使節団は12月に呼び戻され、彼はロシアの問題に関するノルウェーの軍事専門家となった。初めはロシア革命に共感して社会主義寄りの思想を持っていたとされる。
1919年にはヘルシンキで諜報の任務に就き、1921年にフリチョフ・ナンセンの依頼でウクライナのハルキウに赴いて国際連盟の人道支援にあたり、地域の運営の悪さと、一日に約一万人という死亡率を報告書に記した。1920年代にソ連の飢餓救済にあたったことを契機に、社会主義から離れて民族主義に目覚めた。1931年に成立した農民党内閣に国防相として入閣し、辞任後の1933年5月17日、ナチスに範を採ったファシズム政党・国民連合を創設した。国民連合は結党当初は教会の支援もあって成功したが、次第に反ユダヤ主義色を濃くして、支持を失った。結局、国会で議席を得ることはなく、1940年ごろには周縁的な組織にすぎなかった。ナチスの思想家ローゼンベルクの「北海帝国」構想に共感し、1939年にはヒトラーとも会見した。
1940年4月9日にドイツがノルウェーに侵入すると、混乱のなかラジオを通じて全権掌握を宣言し、ドイツ国防軍侵攻の手引きをした。しかしドイツ側が彼の政府を支持しなかったため、この企ては失敗した。これによりクヴィスリングの名は、売国奴の代名詞として知られるようになり、ヨーロッパのいくつかの言語では「クヴィスリング」という語が、売国奴や第五列を意味する普通名詞として辞書に載っている。ドイツが国土を掌握した後は、国家全権委員のヨーゼフ・テアボーフェンの下で名ばかりの指導者として振る舞ったが、国内でレジスタンスが活発になると、1942年にヒトラーから首相の権限を与えられた。政権は傀儡政権であり、ドイツに協力した。1945年5月9日に連合国軍に逮捕され、国家反逆罪で裁判にかけられ、同年10月24日に銃殺刑に処された。
同じ年に亡くなった人物
- カロリーネ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ (1945年没)
- テューラ・ア・ダンマーク (1880-1945) (1945年没)
- アーニー・パイル (1945年没)
- イヴァン・バグリャノフ (1945年没)
- ケーテ・コルヴィッツ (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- ヤン・ヴェルナー・ダニエルセン (2006年没)
- Marie Hoeg (1949年没)
- ヤルマール・アンデルセン (2013年没)
- ニルス・クリスティ (2015年没)
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