HISTORICAL PERSON · 1945年没

ケーテ・コルヴィッツ

ドイツの版画家・彫刻家。貧しい人々の生活や労働、母や女性としての苦闘を数多くの作品に描き、20世紀前半のドイツを代表する芸術家の一人とされる。

生涯
1945年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ザクセン州 / モーリッツブルク)
出生地
ドイツ帝国(ケーニヒスベルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ザクセン州)

伝記

ケーテ・シュミット・コルヴィッツは、1867年7月8日、東プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で、左官屋の親方である父カール・シュミットと母ケーテ・ループの間に生まれた。母方の祖父は、公的な教会を追われて独立の教会を立てたルター派の牧師で、宗教と社会主義についての祖父の教えは、彼女の人格と芸術に深い影響を与えたとされる。父の仕事場にいた職人から絵や銅版画を学び、父は17歳になった彼女を絵の勉強のためにベルリンへ送った。ベルリンではマックス・クリンガーなど、ベルリン分離派の画家や版画家の影響を強く受けた。

一度ケーニヒスベルクに戻ったあと、より芸術的な環境を求めてミュンヘンに行き、フランス印象派の影響を受けた。自分には絵画よりも版画やスケッチが向いていると考えるようになった。1890年にケーニヒスベルクへ戻り、初めてのアトリエを借りて、港で働く女性たちの活動的な姿を版画に描いた。1891年、兄の友人で医師のカール・コルヴィッツと結婚し、ベルリンの貧民街に移った。貧しい人々の患者を診る夫の仕事を通じて、スラムの住民たちに強い印象を受け、貧困や苦しみを描くようになった。

1897年、ゲアハルト・ハウプトマンの戯曲『織匠』を見た印象から、最初の版画連作『織匠』を発表し、一躍脚光を浴びた。批評家には絶賛されたが、芸術家のパトロンたちにとっては難しい題材で、ベルリンの大展覧会では金メダルの候補にあがりながら、皇帝ヴィルヘルム2世が授賞を許可しなかった。ドイツ農民戦争を題材にした連作『農民戦争』(1908年)で評価され、版画に加えて彫刻も手がけた。1914年、第一次世界大戦の開戦一週間後に、末の息子ペーターが戦死した。息子のハンスとペーターが志願したとき、彼女は止めずにむしろ後押ししたこともあって、長く悲しみに苛まれた。戦後はペーターの死をもとにした木版画の連作『戦争』(1920年)や、労働者を題材にした『プロレタリアート』(1925年)を発表した。息子の死後17年にわたり彫刻『両親』を制作し、1932年にベルギーのドイツ軍戦没兵士墓地に設置された。

1919年、女性の芸術家として初めてプロイセン芸術院の会員となり、1929年にはプール・ル・メリット勲章を受けた。社会主義運動や平和主義運動にも関わり、カール・リープクネヒトの追憶像を制作した。1933年、ナチ党が権力を握ると、反ナチス的な作家とされて芸術院の会員と教授職から去るよう強制された。最後の版画連作『死』や、母と死んだ息子の彫刻『ピエタ』(1937年)を制作したが、1930年代後半以降は展覧会も制作も禁じられた。1936年7月にはゲシュタポの訪問を受け、収容所に送ると脅された。夫妻は、その可能性が避けられなくなれば自殺しようと決めたという。しかし国際的に著名で、70歳の誕生日には150通を超える電報が届き、アメリカ移住の申し出も、家族への報復を恐れて断った。

夫は1940年に病死し、孫のペーターは1942年に東部戦線で戦死した。1943年のベルリン空襲で住居とデッサンの多くを失い、ザクセン王子エルンスト・ハインリヒの招きでドレスデン近郊のモーリッツブルクに疎開した。制作を禁じられた後もひそかに制作を続け、最末期の作品に、子供たちを腕の下に抱えて守り、睨みつける母親を描いた1941年の版画『種を粉に挽いてはならない』がある。1945年4月22日、第二次世界大戦の終結をわずかに前に世を去った。

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