HISTORICAL PERSON · 1330年没

ジャンヌ2世 (ブルゴーニュ女伯)

フランス王フィリップ5世の王妃、ブルゴーニュ女伯。義妹の密告で姦通の罪に問われ一時幽閉されたが、母の奔走もあり無罪を勝ち取った。

生涯
1330年没
死亡地
フランス共和国(ソンム県 / ロワ)
出生地
フランス共和国(ブラコン)
出典
世界地図
フランス共和国(ソンム県)

伝記

ジャンヌ2世・ド・ブルゴーニュは、1291年ごろに生まれ、1330年1月21日にロワで没した、ブルゴーニュ女伯でアルトワ女伯、そしてフランス王フィリップ5世の王妃である。ブルゴーニュ伯オトン4世とアルトワ女伯マティルドの長女で、妹ブランシュは夫の弟シャルル4世の王妃となった。ジャンヌという名は、オトンの祖父ジャンを偲んで付けられたという説がある。父オトンの跡は、唯一の男子だった幼い弟ロベールにはもともと1295年のヴァンセンヌ条約により相続権がなく、娘のうち最年長のジャンヌが継いだとされる。ただ、ロベールが1303年から1315年まで伯位にあったともいわれる。

1307年、ジャンヌはコルベイユで、フィリップ4世の次男でポワティエ伯のフィリップ、のちのフィリップ5世と結婚した。1313年の聖霊降臨祭には、王の息子たちの騎士叙任の祝いに合わせて、義姉妹のマルグリットやイザベルとともに十字架を受けたが、夫に強いられたようであるという。2人の間には、1308年にジャンヌ、1310年にマルグリット、1312年にイザベル、1313年にブランシュが生まれた。

1314年、夫の妹イザベルの密告により、ジャンヌは姦通の罪で、王太子ルイの妃マルグリットや妹ブランシュとともに捕らえられ、ドゥルダンの城に幽閉された。マルグリットとブランシュは姦通の罪を認められたが、ジャンヌは姦通の罪を免れ、姉妹の行いを告発しなかったという共謀の罪で訴えられるにとどまった。無実を訴えつづけた彼女は、母マティルドの奔走もあってパリの法廷で無罪とされ、3人のうち彼女だけが許されて宮廷に戻った。夫との間に信頼関係があったためともいわれる。復帰にはマティルドの影響が大きく、娘婿の即位による役割を失いたくなかったためと考えられている。

1316年11月、甥の王ジャン1世が幼くして亡くなり、夫フィリップが王となって、ジャンヌは王妃になった。夫の戴冠式とともに、ランスのノートル=ダム大聖堂で王妃として戴冠された。この年、息子フィリップ・ルイが生まれたが、翌1317年に亡くなった。1317年には、サン=ドニの修道士ジル・モレオンに、時祷書を写させて彩色させた。ピエール・ベルシュイールによれば、フランス語でオウィディウスの『変身物語』を翻案した『教訓化されたオウィディウス』は、ジャンヌの求めで作られたという。1318年からは、生まれ故郷のブルゴーニュ伯領に気を配り、パリから織工や毛織物商を呼び寄せ、マルネとグレーに新しい市民層を育てようとした。同じ1318年には、長女ジャンヌがブルゴーニュ公ウード4世と結婚した。

1322年に夫が亡くなると、ジャンヌは宮廷を出て、ブルゴーニュ伯領に戻り、自分の領地で暮らした。この年、娘が生まれたが、早世した。1329年に母マティルドのアルトワ伯位も継ぎ、ブルゴーニュ女伯とアルトワ女伯を兼ねた。ジャンヌは39歳で亡くなり、遺体はパリのコルドリエ修道院に葬られ、心臓はサン=ドニの夫のそばに納められた。遺言では、パリにブルゴーニュ学寮を創設するよう定めた。伯領は長女ジャンヌ3世が継ぎ、この結婚でブルゴーニュ伯領とブルゴーニュ公領は統合された。ブルゴーニュ伯領とアルトワ伯領は、1361年に次女マルグリットが継承した。

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