伝記
バルトーク・ベーラは、1881年3月25日、ハンガリー王国のナジセントミクローシュ(現在のルーマニア領)に生まれた作曲家、ピアニスト、民俗音楽研究家である。同名の父は農学校の校長で、町に音楽協会を設立するほどの音楽愛好家だった。母パウラはドイツ系のピアノ教師である。幼いころは病弱だったが、3歳くらいから母の演奏に合わせて太鼓を叩き、4歳では自己流で40曲のピアノ曲を弾いたという。母は5歳ごろから正式なピアノ教育を始めた。7歳のとき、父が32歳で急死し、母は一家を支えるためピアノ教師となり、仕事の都合で各地を転々とした。9歳前後からピアノ曲を書き、10歳で初舞台を踏んだが、母は天才少年として売り出す気はなく、まず普通の教育を受けさせた。1894年にポジョニに移り、ギムナジウムでエルンスト・フォン・ドホナーニと知り合って友人となった。
1898年にウィーン音楽院への入学を許されたが、ハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだというドホナーニの薦めで、翌年ブダペスト王立音楽院に入った。1902年、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはこう語った』に衝撃を受けて交響詩『コシュート』を書いた。1848年の独立運動の英雄への賛歌で、当時ハプスブルク帝政下のブダペストの世論を騒がせた。1904年には初めてトランシルヴァニア出身者が歌うマジャル民謡に触れた。1905年のパリのルビンシュタイン音楽コンクールでは、ピアノ部門で2位、作曲部門では入賞を逃した。このころコダーイ・ゾルターンと出会って多大な影響を受け、1906年からコダーイらと各地の農民音楽の採集を始めた。1907年、26歳でブダペスト音楽院のピアノ科教授となり、ハンガリーにとどまって採集と編曲を進めた。
1909年にツィーグレル・マールタと結婚し、翌年に長男が生まれた。1911年、唯一のオペラ『青ひげ公の城』を作曲し、ハンガリー芸術委員会賞に提出したが、演奏不可能と拒絶された。顧みられない現状に疲れて、ピアノ科教授以外の公的な立場から身を引いた。第一次世界大戦が始まると採集が難しくなり、作曲に戻ってバレエ音楽『かかし王子』などを書いた。『かかし王子』は1918年に初演されて成功し、同年『青ひげ公の城』も初演されて、国際的な名声を得た。1919年にはハンガリー評議会共和国の音楽指導部に参加したが、その後の政治の混乱に巻き込まれ、不本意な時期が続いた。1923年にマールタと離婚して、ピアノの生徒だったパーストリ・ディッタと結婚し、翌年に次男ペーテルが生まれた。
1934年に音楽院の職を離れて、科学アカデミーの民俗音楽研究員となり、収集品の整理に没頭した。1936年には、パウル・ザッハーの委嘱で、代表作の『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』を作曲した。1939年に母が亡くなり、ナチスを嫌い、民俗音楽の研究環境を求めていた彼はヨーロッパを去ることを考え始めた。1940年10月8日にリスト音楽院で告別コンサートを開き、妻と膨大な研究資料とともにアメリカ合衆国へ移住した。コロンビア大学の客員研究員として南スラブの民俗音楽に取り組んだが、作曲する気にもならなかったようだ。1942年ごろから発熱を繰り返し、1943年初頭に入院した。友人たちは医療費の負担を働きかけ、クーセヴィツキーに作品を依頼させると、彼は驚異的な速さで『管弦楽のための協奏曲』を完成させた。病は白血病だった。1945年にピアノ協奏曲第3番などに着手したが、白血病が急性化し、9月26日にニューヨークで世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- デイヴィッド・リンゼイ (1945年没)
- ジョヴァンニ・パラトゥッチ (1945年没)
- エルンスト・カッシーラー (1945年没)
- ジョージ・ウィリス・リッチー (1945年没)
- フレッド・ホビー (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョーン・クロフォード (1977年没)
- チャールズ・ダーニング (2012年没)
- ジョーイ・ギャロ (1972年没)
- アンジェリカ・ヴァン・ビューレン (1877年没)
- P・G・ウッドハウス (1975年没)