HISTORICAL PERSON · 1945年没

マルティン・ボルマン

ドイツの政治家。ヘス失脚後にナチ党官房長となり、ヒトラーの個人秘書として権勢を振るった。1945年に消息を絶ち、欠席のまま死刑判決を受けた。

生涯
1945年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハルバーシュタット)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

マルティン・ルートヴィヒ・ボルマンは、1900年6月17日に、ドイツ帝国プロイセン王国のハルバーシュタット近郊で生まれたドイツの政治家である。父テオドールは郵便局員で、短期間、胸甲騎兵連隊の軍楽隊でトランペットを吹いたことがあり、母アントニエは郵便代理人の娘だった。ボルマンは長男で、名は宗教改革家マルティン・ルターにちなむ。父は1903年に死去し、半年後に母は銀行支店長と再婚した。1909年に一家はヴァイマルへ移り、実科ギムナジウムに入った。1918年に陸軍第55砲兵連隊に入隊したが、前線には出ず、ニュルンベルクで将校の当番兵をしており、最終階級は砲兵二等兵だった。

戦後はメクレンブルクの大農場で農業助手として働き、秘書・会計係としての能力を農場主に認められて、農場の管理を任された。農場主はドイツ義勇軍の活動に深く共鳴し、義勇軍兵士を次々と受け入れており、ボルマンも彼らの管理にあたった。1922年にはロスバッハ義勇軍に入隊して会計責任者を務め、同年12月にドイツ民族自由党に入党した。1923年5月31日夜、同義勇軍が小学校教師をリンチ殺害した。教師は義勇軍から「ボルシェヴィキのスパイ」と疑われ、会計責任者のボルマンとも金銭上のトラブルを抱えていた。7月に殺害の犯人の一人として逮捕され、1924年3月にライプツィヒの裁判で禁固1年を言い渡された。同じ裁判にかけられた者の中には、のちのアウシュヴィッツ強制収容所の所長ルドルフ・ヘスもいた。

1925年3月に釈放され、農場の仕事に戻ったが、同年5月に離れることになった。1927年2月にナチ党に入党し、突撃隊にも入隊した。同年11月からテューリンゲン大管区の報道部長を務めたが、演説は無能で、聴衆に嘲笑されるため、党から演説を禁じられたという。1928年11月に突撃隊の救済基金の部門に勤務し、1930年8月にはその部長に任じられて、裏方の事務に徹して勢力を拡大した。1929年9月にはナチ党の有力者ヴァルター・ブーフの娘と結婚し、結婚式にはヒトラーも立会人として出席している。

1933年にヒトラーが政権を掌握すると、7月に副総統ルドルフ・ヘスの個人秘書兼幕僚長に任じられ、1941年まで秘書としてヒトラーの側で活動した。彼は絶えず鉛筆とメモ用紙を持ち、ヒトラーの言葉を書き留めていたという。同時に「アドルフ・ヒトラー・ドイツ産業基金」の責任者となり、ヒトラーの山荘の改築も請け負って、高く評価された。1941年5月にヘスが単独で英国へ飛んで失脚すると、ヒトラーに共犯を疑われたが、すぐにヘスを批判して無実を証明した。ヘスの事務所は党官房と改称され、ボルマンはその党官房長に就任した。党の運営は事実上彼に掌握され、軍部や行政機構にも影響を及ぼした。1943年には総統の個人秘書の地位を手に入れ、ヒトラーがどの報告に目を通し、誰に会うかを決める権限を実質的に持った。

1945年4月29日、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚式に参列し、翌日のヒトラーの自殺後、遺体の焼却を行ったが、戦闘の混乱の中で消息を絶った。ニュルンベルク裁判では欠席のまま死刑判決を受けた。南米への逃亡などの生存説も流れたが、1973年に西ドイツの裁判所が正式に死亡と発表した。1945年5月2日頃、総統地下壕から脱出する際に青酸で服毒自殺していたことが、1998年に証明された。

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