HISTORICAL PERSON · 1945年没

ピエトロ・マスカーニ

イタリアのオペラ作曲家・指揮者。1890年の一幕歌劇コンクールに応募した『カヴァレリア・ルスティカーナ』で大成功を収めた。

生涯
1945年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(リヴォルノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ピエトロ・マスカーニは、1863年12月7日にイタリアのリヴォルノで生まれたオペラの作曲家・指揮者である。父は息子に法律を学ばせようとしたが、ピエトロは音楽に強い関心を持ち、伯父を味方につけて、故郷の音楽院で本格的に音楽を学んだ。1876年、13歳のときに、リヴォルノ生まれの作曲家アルフレード・ソッフレディーニに師事した。ソッフレディーニは、ミラノで学び終えたばかりで、のちにケルビーニ音楽院となる音楽学校を創設した人物である。マスカーニはたちまち作曲を始め、1879年から1880年にかけて、交響曲や悲歌、キリエ、グローリア、アヴェ・マリアなど、いくつもの作品を書いた。ヴェルディやヴァーグナーの作品を高く評価し、その影響は自作にも見られる。20歳にならぬうちに交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲して、その才能を認められた。

1881年2月9日には、最初のカンタータ『織物工場にて』がケルビーニ音楽院で初演され、ミラノの音楽コンクールで一等を取った。同じ年、ミラノでアッリーゴ・ボーイトとアミルカレ・ポンキエッリに会った。1882年にリヴォルノを発ってミラノへ向かい、10月12日にミラノ音楽院の入学試験に合格すると、ここで作曲家ジャコモ・プッチーニと知り合った。後援者の後押しでミラノ音楽院に入り、ポンキエッリに師事したが、1885年に学業を終えないまま学校を飛び出し、指揮者として各地を回る活動を始めた。その後、チェリニョーラの音楽学校の教師となった。

1890年、ローマの楽譜出版社の一幕歌劇コンクールに応募して当選した『カヴァレリア・ルスティカーナ』によって、驚異的な成功を収めた。わずか2か月で書かれた作品で、ジョヴァンニ・ヴェルガの作品に基づいており、激しい感情に追い込まれた人物の暴力的な行動を描くヴェリズモの代表とされる。同年5月17日にローマで初演された。ヴェルガは出版社の提示する翻案権の条件に不満で、盗用だと訴えて勝訴し、上演の収益の25パーセントを得た。続いて『友人フリッツ』(1891年)や『イリス』(1898年)を発表した。1895年にはペーザロのロッシーニ音楽院の院長に就任した。1901年の『仮面』は、ミラノ、トリノ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ヴェローナ、ローマの6都市で同時に初演された。15曲のオペラと1曲のオペレッタ、管弦楽曲や声楽曲、ピアノ曲を残したが、成功が大きすぎたためか、『カヴァレリア・ルスティカーナ』が後の多くの作品を霞めてしまった。友人でライバルだったプッチーニとは作風が大きく異なり、そのせいか批評家からは過小評価されてきたといわれる。

1929年、イタリア王立アカデミーの創設にあたり、ピランデッロ、マルコーニ、ダンヌンツィオ、フェルミらとともに会員に選ばれ、1932年にはファシスト党に入党した。ファシスト党政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近し、1935年のオペラ『ネローネ』は、ムッソリーニへの賛辞だったとされる。このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏したのち、全財産を没収されたと伝えられる。1945年8月2日、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じた。遺体はローマに葬られたが、1951年に故郷のリヴォルノに再埋葬され、それと共に名誉回復された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物