HISTORICAL PERSON · 1945年没

ヴァルター・モーデル

ドイツの陸軍元帥。ゲンティーン出身で、士官候補生から第一次世界大戦を経て昇進し、第二次世界大戦でも軍を率いた。

生涯
1945年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / ラーティンゲン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ゲンティン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

オットー・モーリッツ・ヴァルター・モーデルは、1891年1月24日に生まれ、1945年4月21日に没したドイツの陸軍軍人である。最終階級は陸軍元帥であった。

ゲンティーン(現在のザクセン=アンハルト州)に、音楽監督の父と母マリアの長男として生まれた。ゲンティーン、エアフルト、ナウムブルクの学校に通い、アビトゥーアに合格したが、軍人への道を志した。1909年に士官候補生として歩兵連隊に入営し、翌年少尉に任官した。第一次世界大戦の開戦当初は、大隊副官、連隊副官として西部戦線に従軍した。1915年に速成の参謀教育を受け、中隊長として前線で重傷を負った後、陸軍最高司令部に転属となり、作戦課に配属された。1917年に大尉に昇進した。1918年11月11日の停戦後も軍に残り、参謀将校や機関銃中隊長、戦術・戦史教官などを経験した。1929年に少佐、1932年に中佐、1934年に大佐と昇進し、1935年には陸軍参謀本部の技術部長に就いた。1938年に少将に昇進し、第4軍団参謀長となった。1921年5月12日にヘルタ・ホイセンと結婚し、一男二女をもうけた。

第二次世界大戦が始まると、ポーランド侵攻と西方電撃戦で第16軍参謀長を務めた。その後、第3装甲師団長、第41軍団長、第9軍司令官を務め、1941年7月に騎士鉄十字章を受章した。1941年冬のモスクワ前面でのソ連赤軍の反撃に対しては、第9軍司令官として巧みな防衛戦で戦線を安定させ、ヒトラーの信を得た。この戦功で1942年2月に上級大将に昇進し、柏葉騎士鉄十字章、柏葉剣付騎士鉄十字章を授与された。第二次ルジェフ会戦やルジェフ突出部からの撤退作戦など、防衛戦で活躍し、「ヒトラーの火消し屋」の異名を得た。1943年7月のクルスクの戦いでは、第9軍が北部からの主攻撃を担当したが、ソ連赤軍の堅固な守りによって大きな戦果を上げられなかった。5月の作戦会議で、モーデルは自軍は準備不足で、作戦開始は一ヶ月は延期すべきだと主張を押し通していた。1944年1月に北方軍集団、3月には北ウクライナ軍集団の司令官となり、同時に元帥に列せられた。6月には、ソ連の大攻勢で粉砕された中央軍集団の司令官を兼任し、かろうじて戦線を立て直した。同年7月のヒトラー暗殺未遂事件の後には、ヒトラーへの忠誠を明確に示す誓紙を差し出している。8月に西方軍総司令官およびB軍集団司令官として西部戦線へ転任したが、ドイツ軍は壊走状態となっており、状況は手に余った。9月には、連合軍のマーケット・ガーデン作戦を失敗に終わらせたが、12月のバルジの戦いでは、大規模な攻勢はもはや不可能として反対したものの、ヒトラーを翻意させることはできなかった。この頃からヒトラーの信任は失われていった。

ドイツの敗戦直前、B軍集団がルール地方で連合国軍に包囲されると、「逃亡兵」や連合軍との停戦交渉を試みた者を、容赦なく即決裁判で処刑する指令を出すなど、苛烈な抵抗を続けた。やがて壊滅が目前になると、B軍集団と配下の部隊の解散を命じ、民間人には米軍の庇護下に入ることを認め、将兵には投降や帰郷を許可した。自身は「ドイツの元帥は降伏しないものだ」として、捕虜となることを潔しとせず、デュースブルク近郊の森で拳銃を使って自決した。評伝を書いたスティーブン・ニュートンは、モーデルを非政治的な職業軍人と評している。

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