HISTORICAL PERSON · 1331年没

ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ (セルビア王)

セルビア王。反乱で父により視力を奪われながらも回復し帰国、内戦で異母兄弟コンスタンティンを破って戴冠しデチャニ修道院を建設した。

生涯
1331年没
死亡地
セルビア共和国(ズヴェツァン / Zvecan Fortress)
出生地
—
出典
世界地図
セルビア共和国(ズヴェツァン)

伝記

ステファン・ウロシュ3世デチャンスキは、セルビア王国の王である。1276年ごろ、のちのセルビア王ステファン・ウロシュ2世ミルティンの子として生まれた。デチャンスキの渾名は、彼が建てたデチャニ修道院に由来する。若いころ、セルビアとモンゴルの友好を保つため、従者とともにジョチ・ウルス西部の有力者ノガイのもとへ人質として預けられ、1299年にノガイが戦死したのち帰国した。その後はゼタの統治を任されたが、1314年に反乱を起こした。反乱は年内に、ビザンツ帝国の軍事力を借りた父によって鎮圧され、彼はコンスタンティノープルへ亡命した。このとき父に視力を奪われたが、完全な失明には至らず、のちに回復したという。1317年にはフムの主教ダニーロに父との仲介を頼む手紙を書き、ダニーロはセルビア大主教ニコデモに取り成しを依頼した。1320年に帰国を許され、領地としてブディミリャを与えられた。

1321年10月29日に父が病没すると、異母兄弟でゼタの支配者であるステファン・コンスタンティンが王位を継いだ。しかしコンスタンティンがウロシュ3世への服従を拒んだため、王位をめぐる内戦となり、ウロシュ3世はゼタを攻撃してコンスタンティンを殺害した。1322年1月6日、大主教ニコデモから戴冠を受け、子のドゥシャンも若王として戴冠した。ドゥシャンにゼタを領地として与えたことは、後継者に指名する意思の表れだった。一方、従兄弟のステファン・ヴラディスラヴ2世はハンガリー人の支援を受けて兵力を集め、ウロシュ3世に戦いを挑もうとした。この争いは1323年末にウロシュ3世の役人がルドニクの市場を掌握したことで決着に向かった。ヴラディスラヴ派はオストロヴィツァの城砦に立て籠もり、ドゥブロブニクの商人メンチェトらがこれを指導した。ウロシュ3世がドゥブロブニクに抗議すると拒絶されたため、1324年に同市の商人を捕らえて財産を没収した。年末にルドニクを回復すると商人を解放して財産を返し、敗れたヴラディスラヴはハンガリーへ亡命した。1325年8月には貴族のヴォイヴォダ・ヴォジンがドゥブロブニクを略奪する事件が起き、1326年末までにはフムをボスニアに奪われた。

やがて南ではブルガリアとビザンツの動きが脅威となった。ブルガリアとの関係は悪化し、義弟のブルガリア皇帝ミハイル3世シシュマンは、ウロシュ3世の妹アンナ・ネダを離縁してビザンツの王女を迎えた。1329年春にブルガリアとビザンツがセルビアに対抗して和約を結び、1330年にブルガリアはセルビアへ大規模な侵攻を行った。ウロシュ3世は7月28日、ヴェルブジュドの戦いで、ブルガリアの援軍が到達する前に攻勢に出て大勝した。この戦いで重傷を負ったミハイル3世は間もなく没した。ビザンツ皇帝アンドロニコス3世は同盟国の敗戦を知ってアドリアノープルに退き、セルビアはマケドニア方面に領土を広げた。ウロシュ3世は妹アンナの子イヴァン・ステファンをブルガリアの帝位に就けた。

しかし貴族の一部は彼の政策に不満を抱き、1331年に反乱を起こして廃位し、子のドゥシャンを王に擁立した。ウロシュ3世はズヴェチャン城に幽閉され、1331年11月11日に死去した。間もなく絞殺されたともいわれる。ドゥシャンはのちにセルビア皇帝となった。

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