伝記
アルパ・ケウンは、イルハン朝の第10代君主(在位1335年〜1336年)である。フレグの子孫ではなく、フレグの弟アリクブケの後裔にあたる。アリクブケの次男メリク・テムルの子ミンガン、その子ソセの子として生まれた。生年は分かっていない。
1335年11月、第9代君主アブー・サイードが亡くなったが、彼には子がまったくいなかった。そこでワズィール(宰相)のギヤースッディーン・ムハンマドが、ハトゥンやアミールたちの支持を集めてアルパ・ケウンを推挙し、第10代イルハンとして即位させた。ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが後継を狙うのを防ぐためだったともいわれる。アブー・サイードのハトゥンのうち最高位だったディルシャード・ハトゥンは妊娠しており、身の危険を感じて、母方の叔父にあたるイラーク・アラビーの長官アリー・パーディシャーのもとへ避難した。一方、アルパ・ケウンは、バグダード・ハトゥンが日ごろから自分を軽んじていると知っており、彼女がウズベク・ハンと内通してアブー・サイードに毒を盛ったとの容疑をかけて処刑した。
その後、アルパ・ケウンは厳冬のなかウズベク・ハンに向けて進撃した。敵陣と向き合って布陣し、一部隊を背後に回して襲撃させたところ、ウズベク・ハンは退却し、新君主としての信頼を得た。帰還すると、オルジェイトゥ・ハンの娘で、チョバンの寡婦だったサティ・ベクを娶った。この結婚は権力を固めるのに役立ち、彼はさまざまな口実で家柄や財産の顕著な人物を殺した。ファールスの富裕な官吏マフムード・シャー・インジュウもその一人である。
オイラト出身のアリー・パーディシャーは、アルパ・ケウンの推戴を知らされておらず、即位に反対した。彼はフレグの子孫ムーサをハンに擁立し、ギヤースッディーンらに忠誠的でない諸将を味方につけて進軍した。アルパ・ケウンは各方面から数部隊を前進させて包囲しようとしたが、指揮官たちは血を流さず和解できると期待して動かなかった。アリー・パーディシャーは大元帥に任じられることを条件に降伏を申し出たが、ギヤースッディーンは同意しなかった。1336年4月29日、アルパ・ケウンはジャガトゥ地区で敵と遭遇した。戦闘のさなか、ギヤースッディーンを深く憎んでいた二人のアミールが敵軍に投降し、アルパ・ケウンの軍は優勢だったにもかかわらず敗れて逃走した。最後まで抵抗したギヤースッディーンと弟ピール・スルターンはマラーガの付近で捕らえられ、ギヤースッディーンは諸将の要求で殺され、数日後にピール・スルターンも処刑された。
アルパ・ケウンはスィジャース地区で捕らえられ、ウージャーンへ送られてマフムード・シャー・インジュウの相続人に渡され、反坐法を適用されて処刑された。在位は5か月ほどだった。アルメニアの年代記作者は彼がキリスト教徒で、それが殺された理由だと記すが、他に裏づけはない。彼の死後、ディヤールバクルの長官ハーッジー・トガイがルームの長官シャイフ・ハサン(小ハサン)にハン位を奪うようそそのかし、バグダード・ハトゥンの旧夫である大ハサンもフレグの子孫ムハンマドを擁立した。アルパ・ケウンは、実際に権力をふるった最後のイルハンとされ、後の君主は傀儡となって、実権はチョバン家とジャライル家が分け合うことになった。
同じ年に亡くなった人物
- ブザン (チャガタイ家) (1336年)
- イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア (1336年没)
- チーノ・ダ・ピストイア (1336年)
- ラモン・ムンタネー (1336年没)
- 後伏見天皇 (1336年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィクトル・アンバルツミャン (1996年没)