伝記
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・アレヒンは、1892年10月31日にモスクワで生まれたチェスの選手である。ロシア出身だが、ロシア革命のため1921年にフランスへ亡命し、1927年に帰化して、フランス国籍で活躍した。1927年から1935年、および1937年から1946年まで世界チャンピオンを務め、タイトルを奪還した初の人物であり、現在までに唯一、世界チャンピオンの座にあったまま亡くなった人物でもある。裕福な家庭に生まれ、父は地主でロシア帝国の国家議会ドゥーマの議員、母は実業家の娘で、兄アレクセイと姉ヴァルヴァラがいた。両親が忙しく、子どもたちは放っておかれがちで、チェスは祖母が教えたともいわれる。7歳で兄の相手を務めて学び始め、学業も優秀で、高校ではフランス語とドイツ語も学んだ。
最初の公式な参加は、1902年に雑誌が主催した通信チェスの大会だった。1907年にモスクワ・チェスクラブの春季大会に出て、対面式の大会に初めて参戦し、翌1908年の春季大会では、15歳で優勝した。同年、デュッセルドルフの大会で4位となった。1909年末にサンクトペテルブルクに移り、貴族のための帝国法学校に入学し、同年の全ロシア・アマチュア大会で優勝して、国内のトッププレイヤーの一人になった。1912年にストックホルム、翌年にはスヘフェニンゲンの国際大会で優勝した。1914年1月の全ロシア・マスターズ大会でニムゾヴィッチと同点優勝し、同年4月から5月の強豪の国際大会では、世界チャンピオンのラスカーが優勝し、カパブランカが2位で、アレヒンは3位だった。皇帝ニコライ2世がこの大会の上位5人に「グランドマスター」の称号を授けたという話があるが、疑問を呈する史家もいる。その年のパリの大会では、マーシャルと同点で優勝した。第一次世界大戦が始まったとき、マンハイムの大会に出場しており、ほかのロシア人選手とともにドイツ警察に一時拘束された。
革命後は財産を没収された。1919年6月にはオデッサで、白軍のスパイの疑いで逮捕されたが、真偽の定かでない話として、トロツキーが独房を訪ねて対局し、敗れたため釈放に有利に働いたと伝えられる。結婚を機にフランスへ亡命し、1927年に帰化した。同じ1927年にキューバのカパブランカに挑戦し、勝利して世界チャンピオンとなった。契約にはリターンマッチの権利が定められていたが、アレヒンは再戦を避け続け、1929年と1934年にボゴリュボフを相手に防衛した。1929年から1934年に出場したほぼすべての大会で優勝している。1933年には世界ツアーの一環で来日し、帝国ホテルで目かくしの同時対局を行って全勝、将棋棋士の木村義雄にも勝ったという。
1935年に格下と見られたマックス・エーウェに敗れて失冠した。敗因は準備不足と過度の飲酒にあったとされる。断酒して臨んだ2年後の再戦で雪辱し、再びチャンピオンとなった。第二次世界大戦中は、ナチス・ドイツ占領下のフランスで行われた大会に参加し、対独協力者と見なされた。そのため戦後は主要な大会に招待されず、移住先のポルトガルを中心に小規模な大会に出場した。1946年3月24日、ポルトガルのエストリルでチャンピオンのまま亡くなった。激しく想像力に富んだ攻撃的な棋風から、「盤上の詩人」と称えられ、序盤の革新にも貢献した。1921年に初めて用いた防御は、「アレヒン・ディフェンス」と呼ばれる。小川洋子の小説『猫を抱いて象と泳ぐ』の主人公は、「リトル・アリョーヒン」と呼ばれている。
同じ年に亡くなった人物
- ミハイル・カリーニン (1946年没)
- カール・シューマン (1946年没)
- 洪思翊 (1946年没)
- テオドール・アドリアン・フォン・レンテルン (1946年没)
- フローレンス・フラー (1946年没)
同じ地域に関係する人物
- ドゥアルテ (ギマランイス公) (1540年没)
- ルイス・デ・フレイタス・ブランコ (1955年没)
- ヴェルジリオ・フェレイラ (1996年没)
- John de Brito (1693年没)
- マルティン・ベハイム (1507年没)