伝記
ミハイル・イヴァーノヴィチ・カリーニンは、1875年11月19日(ユリウス暦11月7日)、ロシア帝国のトヴェリ県ヴェルフナヤ・トロイツァ村の農民の子として生まれたロシアの革命家、ソビエト連邦の政治家である。13歳ごろまでは父とともに土地で働き、10歳のときに退役軍人から読み書きを教わった。11歳で地元の地主の家が運営する小学校に入り、少年時代は地主の家の図書室でも学ぶことができた。学校を終えると、地主の家に連れられてサンクトペテルブルクに移り、従僕として働いた。16歳で薬莢工場の見習いとなり、18歳でプチロフ工場の旋盤工として雇われ、1891年ごろから、この工場で革命運動に入ったとされる。
1898年にロシア社会民主労働党に入党し、翌年に逮捕されて10か月投獄され、カフカスへ追放された。トビリシの鉄道車庫で職人として働くうち、後のスターリンの二番目の妻の父セルゲイ・アリルーエフと知り合い、その家族を通じてスターリンを知るようになった。ストライキに加わって解雇され、タリンに移ったが、1903年に再び逮捕され、1904年にもシベリアへ追放された。1905年に釈放されてペテルブルクに戻り、1906年にエストニア系のエカテリーナ・ロルベルクと結婚した。同じ年、レーニン率いるボリシェヴィキに加わり、金属労働者中央組合の職員となった。1912年にプラハで開かれたボリシェヴィキの協議会で、中央委員候補に選ばれたが、秘密警察の手先と疑われて正式な委員にはなれなかった。1916年11月にまた逮捕されたが、1917年の二月革命で釈放された。
1917年の4月ごろには、レーニンと異なり、臨時政府への条件付きの支持を唱え、武装蜂起にも反対していた。同年の秋にペトログラード市議会の選挙でペトログラード市長に選ばれ、十月革命のあいだも市政を担った。1919年、党中央委員に選出され、同年3月にスペイン風邪で死去したヤーコフ・スヴェルドロフの後任として、ロシア中央執行委員会議長に就任した。1922年にソビエト社会主義共和国連邦が正式に発足すると、中央執行委員会議長としてソビエト大会を取り仕切った。1924年6月に党政治局員候補、1926年1月には政治局員に選ばれた。1938年1月17日、スターリン憲法によって発足した第1期ソ連最高会議の選挙で、初代最高会議幹部会議長に選出された。
実権のない名目上の国家元首だったが、レーニンは彼を労働者と農民の事情に精通した人物と見なしていた。国家元首として週に1回、限られた人数ではあるが一般市民と接見して希望を聞き、ボリシェヴィキの長老として好々爺然とした風貌もあって、大粛清が始まると多数の請願が寄せられた。しばしば裁判に介入して無辜の人々を救済し、「愛しき父親、スターリン」に対して「親切な祖父、カリーニン」と親しまれた。一方で、大粛清やカティンの森事件の指令書に公式に署名している。権力闘争から遠ざかっていたため粛清の対象とはならなかったが、夫人はトロツキストの容疑で強制収容所に送られ、スターリンの死の翌年である1954年にようやく名誉回復となった。1946年6月3日、大腸癌のためモスクワで死去し、国葬ののち、遺体はクレムリンの壁墓所に埋葬された。トヴェリは1931年から1990年まで「カリーニン」と改名され、ケーニヒスベルクはカリーニングラードと改名された。
同じ年に亡くなった人物
- ヴォイテフ・トゥカ (1946年没)
- ハインリヒ・ゲオルゲ (1946年没)
- マルセル・プショー (1946年没)
- アルシデス・アルゲダス (1946年没)
- ブランチ・ビングリー (1946年没)
同じ地域に関係する人物
- グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ (1783年没)
- アレクセイ・ルイコフ (1938年没)
- ウラジーミル・ダーリ (1872年没)
- ジョン・フィールド (1837年没)
- ワシーリー・ゴルドフ (1951年没)