HISTORICAL PERSON · 1946年没

マヌエル・デ・ファリャ

スペインの作曲家。アンダルシアのフラメンコに関心を寄せ、オペラ『はかなき人生』などを作曲した。晩年はフランコ政権を避けて亡命した。

生涯
1946年没
死亡地
アルゼンチン共和国(コルドバ州 / アルタ・グラシア)
出生地
スペイン王国(カディス)
出典
世界地図
アルゼンチン共和国(コルドバ州)

伝記

マヌエル・デ・ファリャ・イ・マテウは、1876年11月23日、スペイン南部のカディスに生まれた作曲家である。父ホセ・マリア・ファリャは、バレンシア系の裕福な商人で、母マリア・ヘスス・マテウは、カタルーニャの富裕な工業家の家の出であった。五人きょうだいの長男で、祖父や伯母、弟たちの死が幼い心に深い影響を与え、子供のころには結核にもかかった。これと病弱さが重なって、清潔への強いこだわりと、感染や病気への恐れを抱くようになったという。きょうだいとともに家庭教師から教育を受け、最初の音楽の手ほどきは、ピアノの上手な母から受けた。乳母が教えた子守唄や民謡も、彼の想像力を刺激し、深く印象に残った。9歳でピアノ教師のもとで学び始め、和声や対位法も学んだ。家族の友人が開く室内楽の夕べにも通い、ゴノーやモーツァルトなどの作品に触れた。1887年には母とともに、初めて人前で演奏した。12歳のころには文学やジャーナリズムに関心を持ち、友人たちと地元の文芸誌を創刊している。

1890年代にマドリードへ出てピアノを学び、近代スペイン音楽復興の立役者フェリーペ・ペドレルに作曲を師事した。ペドレルが、スペインの民族音楽への興味を植え付けたといわれる。ファリャはとりわけ、アンダルシアのフラメンコ、なかでもカンテ・ホンドに関心を寄せ、多くの作品にその影響を示した。初期作品にはサルスエラが多く、なかでも重要な1幕形式のオペラ『はかなき人生』は、1905年に作曲され、1913年に初演された。1907年から1914年までパリに滞在し、才能をいち早く認めたデュカスが、オペラ・コミック座でこのオペラを上演させ、アルベニスにも紹介した。アルベニスからビニェス、ラヴェルへと人脈が広がり、芸術家のサークル「アパッシュ」に参加し、ドビュッシーとも親交を結んだ。

パリで着手したピアノと管弦楽のための『スペインの庭の夜』は、第一次世界大戦の勃発で1914年9月にマドリードへ帰国してから、1915年に完成させた。続いて、〈火祭りの踊り〉で有名なバレエ音楽『恋は魔術師』(1915年)や、バレエ・リュスのために書いた『三角帽子』(1917年)など、最も有名な作品が生まれた。これらでは、民族主義と印象主義がバランスよく混在している。1921年から1939年までグラナダに移り住み、隠遁生活を送りながら、室内オペラ『ペドロ親方の人形芝居』(1923年)や『クラヴサン協奏曲』(1926年)を作曲した。これらにはストラヴィンスキーの新古典主義音楽の影響が認められ、スペイン民俗音楽の影響はやや薄い。

1936年にスペイン内戦が始まり、グラナダにいた親友のロルカが銃殺されたことを機に、祖国を離れることを決意して、1939年にアルゼンチンに亡命した。フランコ政権からはたびたび帰国要請があったが、終生拒否し続けた。グラナダ時代に構想した大規模なカンタータ『アトランティーダ』は、アルゼンチンに移ってからも作曲が続いたが未完のまま終わり、死後に弟子エルネスト・ハルフテルが補筆して発表した。1946年11月14日にアルゼンチンのコルドバで亡くなり、現地に埋葬されたが、翌1947年にフランコによって遺体はスペインへ戻され、国葬のうえで地下礼拝堂に葬られた。1970年以降にスペインで発行された100ペセタ紙幣には、その肖像が用いられた。

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