伝記
ハンス・ミヒャエル・フランクは、1900年5月23日、バーデン大公国のカールスルーエに、カトリック教徒の中産階級の家庭に生まれたドイツの法律家、政治家である。父カールは弁護士だったが、怪しい仕事を多く引き受け、のちに汚職で法曹資格をはく奪された。母マグダレナは上バイエルンの農家の出で、兄と妹がおり、兄は第一次世界大戦で戦死した。両親は1910年に離婚し、フランクと兄は父に、妹は母に引き取られた。ミュンヘンの学校で学び、1916年から1年ほどプラハの学校にも通った。1918年にバイエルン王国軍に入隊したが、前線には出ず、ミュンヘンに駐在していた。1919年にバイエルン・レーテ共和国が樹立されると、これを打倒する義勇部隊に加わった。この共和国にはソ連から多くのユダヤ人工作員が送り込まれていたため、反ユダヤ主義に正当性を感じるようになったという。
1919年9月から10月ごろ、ドイツ労働者党のアントン・ドレクスラーの知遇を得て、初めてヒトラーの演説を聞いたが、疲れ果てた様子で、あまりいい印象を受けなかった。同年にドイツ労働者党に入党したが、1920年春のナチ党への再編には加わらなかった。ミュンヘン大学で法学を学び、のちキール大学へ移った。1923年夏、ミュンヘンに戻ると、ナチ党はバイエルン州の一大勢力となっていた。9月に突撃隊に入隊し、10月にナチ党に入党して、11月のミュンヘン一揆に参加した。逮捕はされず、のちヒトラーの裁判で弁護を行った。1924年にキール大学から法学博士号を得て、1926年に法曹資格を取り、ミュンヘンで弁護士として活動した。1925年にブリギッテ・ハープストと結婚し、息子3人と娘2人が生まれたが、夫婦は気が合わず、フランクは複数の愛人を持った。
ナチ党員の弁護を重ねるうち、1927年9月に再び入党し、党の専属弁護士となった。1929年に党法務部長に就き、1930年の選挙で国会議員に当選した。当時30歳で、最年少の議員の一人であった。政権掌握後の1933年3月にバイエルン州法務省の州委員となり、法務担当国家弁務官やドイツ法律アカデミー総裁などを兼ねた。1934年にはヒトラー内閣の無任所相に任じられた。同年の突撃隊幹部の粛清の際には、シュターデルハイム刑務所に直行し、レームに法的手続きを保障したと伝えられる。親衛隊が幹部を射殺しようとしたときには引き渡しを拒んだが、結局19人を引き渡した。以後、政治的影響力は低下していった。
1939年10月10日、ヒトラーはフランクをポーランド総督に任命した。総督府領はもとのポーランド領の四割ほどの面積で、一部の権限は親衛隊のヒムラーと共有しなければならなかった。フランクはクラクフのヴァヴェル城に入り、ポーランドを奴隷労働力の供給地と考えて、軽蔑した。知識人は親衛隊により抹殺され、美術品は城に接収されて私物化された。ユダヤ人をゲットーに隔離し、親衛隊による絶滅収容所への移送を容認した。一方で、ピアノやオペラを好み、リヒャルト・シュトラウスなどの芸術家を後援した。ヒムラーとの対立が深まって、辞職を望んだが、ヒトラーに却下された。1942年6月にはドイツ法律学会で、親衛隊とゲシュタポの根拠のない逮捕を批判する演説を行い、ヒトラーから演説を禁じられた。戦後、ニュルンベルク裁判の被告人となり、死刑判決を受けて、1946年10月16日に処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- ジョセフ・ステラ (1946年没)
- サイモン・フレクスナー (1946年没)
- ハリー・ホプキンス (1946年没)
- ミハイ・アントネスク (1946年没)
- イオン・アントネスク (1946年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ・ケーニヒ (1833年没)
- Ernst Krebs (1970年没)
- カール・シュピッツヴェーク (1885年没)
- ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ (1952年没)
- フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯) (1440年没)