伝記
ムハンマドは、イルハン朝のハンとして1336年から1338年まで在位した人物である。生年は分かっていない。イルハン朝の創始者フレグの子モンケ・テムルの玄孫にあたり、ヨル・クトルグの子とされる。ただし系譜には異説があり、アミール・テムルの子クトルグの子とする記録もある。即位したときはまだ幼い子供だったといわれる。
イルハン朝は1335年にアブー・サイードが没したのちに解体へ向かった。アルパ・ケウン・ハンの死後、ジャライル部の有力者タージュッディーン・シャイフ・ハサン・ブズルグ、通称大ハサンは、1336年にこのムハンマドをハンに擁立した。ムハンマドはモンゴルの血を引いており、大ハサンが統治を正当化するのに役立つ存在だったとされる。対立する側では、アリー・パーディシャーがムーサをハンに立てていた。1336年7月、カラ・ダラの戦いでムハンマドと大ハサンはアリー・パーディシャーとムーサの軍を破った。戦いの日は24日とも26日ともいわれる。大ハサンはムハンマドを伴ってタブリーズの宮殿に移り、ここを拠点とした。大臣にはジャラールッディーン・ザカリーヤー、故マフムード・シャー・インジュの子マスウード・シャーらが任じられ、大ハサンを支える者たちはそれぞれの地位を確かなものにした。
その後、ホラーサーン総督シャイフ・アリーのもとにまとまったオイラトの人々が、トガ・テムルのイルハン位を支持して立ち、スルターニーヤを一時占領した。しかし最後にはジャライル軍に敗れ、アリー・パーディシャーの弟ムハンマド・ベクと妻のクトルグ・マリク・ハトゥンはクルド人の部族民に殺され、シャイフ・アリーは処刑された。以後の数年間、大ハサンとムハンマドは西ペルシアでの支配を固めていった。
その計画を妨げたのが、チョバン家のハサン・クチク、通称小ハサンの登場である。小ハサンは、父の代理人に仕えていたトルコ人の奴隷が、実は父のティムルタシュで、エジプトから来たのだと主張した。この話によってチョバン家の人々はジャライル家から離れ、小ハサンのもとに集まった。1338年7月、両軍はアゼルバイジャンで対陣した。日付は10日とも16日ともいわれ、ヴァンに近いアラ・ターグの一帯での戦いとも伝わる。大ハサンは、自軍の将軍ピール・フサイン、すなわちチョバンの孫で小ハサンの従兄弟にあたる人物が敵と通じていることに気づき、タブリーズへ退いた。ムハンマドは退かずに小ハサンと戦ったが敗れ、捕らえられて殺された。
同じ年に亡くなった人物
- 新田義貞 (1338年没)
- アンナ・フォン・ベーメン (1323-1338) (1338年没)
- トマス・オブ・ブラザートン (初代ノーフォーク伯) (1338年没)
- William II of Athens (1338年没)
- テオドーロ1世 (モンフェッラート侯) (1338年)
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