伝記
忠粛王は、1294年に生まれた第27代の高麗王である。姓は王、名は燾といい、第26代の忠宣王の次男で、母はモンゴル人の也速真である。モンゴル名はアラトナシリという。1299年に江陵君に封じられ、のちに江陵大君となった。父の忠宣王に従って燕京へ行き、元の宮廷で育った。兄で世子の王鑑が父との不和から殺害されたため、後継者となった。1313年4月に高麗国王に冊封されて開京へ帰り、6月に延慶宮で即位した。ところが忠宣王が瀋王の位を、兄の江陽公王滋の子である延安君王暠に譲っていたため、これが忠粛王の治世を通じて高麗の王室と瀋王との間に葛藤を生むことになった。
1318年には耽羅の反乱を平定し、弊害の多かった司審官を廃止した。在位の初めには、土地の兼併や高利貸しを規制し、元に送る貢女の数を減らすなど改革に意欲を見せたが、権勢家の反発を受けて大きな効果は上がらなかった。私生活では、正妃に迎えた濮国公主との仲が円満でなく、徳妃洪氏をめぐる痴情争いに巻き込まれた公主が、1319年に病死する事件も起きた。そのうえ王暠が高麗の王位を狙ったため、忠粛王の地位は不安定になり、1321年には元の皇室の命令で燕京へ召喚されて、国王の印章を差し押さえられるまでになった。しかし、忠宣王・忠粛王の父子に好意的だった泰定帝が即位すると状況は一変し、王位を守ることができた。
1325年、忠粛王は4年ぶりに帰国した。だが、長く国内を空けていたうえ、同じ年に再婚した曹国公主までもが難産で亡くなったため、政治への関心を失ってしまった。1330年、子の忠恵王に譲位して再び元へ入朝することにしたが、その途中の黄州で、ちょうど帰国していた忠恵王と出会った。このとき忠恵王がモンゴルの風俗に従って胡礼を行うと、忠粛王は激怒し、「お前の親はみな高麗人なのに、どうして私に胡礼をするのか。服装も贅沢だ」と厳しく叱ったという。2年後、忠恵王が廃位されたため、忠粛王が復位した。
復位後はしばしば王宮を離れて地方や都城の外に滞在し、大臣との接見も拒むのが常であった。これを口実に、瀋王王暠の一派が、忠粛王には政務をみることができないと元に告発し、元は使臣を派遣して追及した。使臣と会った忠粛王は、瀋王側の主張に一つ一つ反論し、これまでの経緯を筋道立てて説き明かして、使臣を感心させたという。晩年は政事を放置したまま、狩りと酒に日を送った。1339年、46歳で世を去った。
沈着でありながら決断力のある性格で、隷書の達人であったと伝えられる。身を清潔に保つ習慣があり、風呂を好んで、1か月に壺10個分の香料と60枚あまりの手巾を使うほどだったという。父の忠宣王は元の世祖クビライの娘である荘穆王后の子で、母の也速真は純粋なモンゴル人であったため、歴代の高麗王のなかでもモンゴルの血が最も濃かったが、本人は高麗人という自覚が強かったようである。家族をみると、高麗出身の恭元王后洪氏との間に、のちの忠恵王と恭愍王が生まれた。曹国公主との間には、1325年生まれの龍山元子がいたが、1341年に世を去っている。異母弟には、1314年生まれで幼いころに出家した徳興君王譓がいる。
同じ年に亡くなった人物
- オットー (オーストリア公) (1339年没)
- アッツォーネ・ヴィスコンティ (1339年)
- ハインリヒ14世 (バイエルン公) (1339年没)
- フランチェスコ・ダンドロ (1339年)
- Rangjung Dorje, 3rd Karmapa Lama (1339年没)