HISTORICAL PERSON · 1340年没

イヴァン1世

モスクワ大公・ウラジーミル大公で、「金袋」を意味するカリターとあだ名された。トヴェリの反乱を鎮圧して1328年に大公位を得て、ジョチ・ウルスの徴税人としてモスクワを富ませ、周辺公国を支配下に入れた。

生涯
1340年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ロシア連邦(モスクワ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

イヴァン1世ダニーロヴィチは、1340年3月31日に没したモスクワ大公(在位1325年〜1340年)で、ウラジーミル大公でもあった。ウラジーミル大公位に就いた時期は、1328年とも1331年ともいわれる。彼は「イヴァン・カリター」とあだ名され、カリターとは「金袋(財布)」を意味する。徴税権によって大きな富を得ていたことに由来する。

父はモスクワ公ダニールで、モスクワ公家の祖であり、アレクサンドル・ネフスキーの末子だった。イヴァンはダニールの四男にあたり、洗礼者ヨハネにちなんで名づけられた。生まれた正確な時期は不明で、年代記は四男の誕生を重要視しなかった。ある歴史家は1288年ごろと推定している。1296年に父が兄アンドレイの代官を追い出したノヴゴロドの人々に招かれると、イヴァンは父の代理としてノヴゴロドに送られたが、1298年にはノヴゴロド人が再びアンドレイを呼び戻し、彼の滞在は短く終わった。1303年に父が没し、長兄ユーリーがモスクワ公を継いだ。父は大公位に就く前に没したため、その子孫は伝統的な兄弟継承の慣行により、大公位から除かれていた。しかし1318年にユーリーはウズベク・ハンにより大公に任じられ、4年後にトヴェリ公ドミトリー・ミハイロヴィチにその地位を奪われた。

14世紀初頭のモスクワ公国とトヴェリ公国は、ウラジーミル大公位をめぐって競い合っていた。1324年(1325年ともいわれる)にジョチ・ウルスで、兄ユーリーがウズベク・ハンの面前でドミトリーに殺され、翌年にはドミトリーがハンによって処刑され、その弟アレクサンドルが大公位を与えられた。こうしてイヴァンはモスクワ公位を継いだ。1327年、ウズベク・ハンは廃れつつあったバスカク制度、つまりハン国の代官制度の復興をめざし、息子チョルをトヴェリに派遣した。その圧政に耐えかねた民衆が8月15日に暴動を起こしてチョルを殺すと、イヴァンはウズベクの許可を得て、5万人のタタール軍とともにトヴェリ公国へ進撃し、トヴェリを破壊した。アレクサンドルはプスコフに逃れ、イヴァンは、この功績を認められて、1328年に大公位を与えられたとされる。一方、この年にハンは大公国をイヴァンとスーズダリ公アレクサンドルの二人に分け、後者の死後の1331年にイヴァンが単独の大公になったともいわれる。

1337年、逃亡していたトヴェリ大公アレクサンドルは、リトアニア大公国の支援を受けて、息子フョードルとともに反撃に出た。しかし、ウズベク・ハンのもとに出頭し、いったんは放免されたものの、イヴァンの讒言を受けたハンに再び召喚され、1338年にフョードルとともに処刑されたと伝えられる。この処刑を1339年とする説もあり、35年に及んだモスクワとトヴェリの争いの終わりとされる。イヴァンはジョチ・ウルスに忠誠を誓い、その徴税人となってモスクワを豊かにし、その財産で周辺の諸公国に所領を増やして、ベロオーゼロ、ガーリチ、ウグリチ、コストロマーの各公国を実質的にモスクワの支配下に置いた。ハンの同意を得て息子セミョーンに大公位を相続させ、モスクワは北東ルーシの諸公国の領袖的な地位を得た。

正教会との関係も重要だった。府主教ピョートルは対トヴェリ闘争でモスクワを支持し、府主教座がウラジーミルにあったにもかかわらず、継続的にモスクワに滞在した。次の府主教フェオグノストは、1328年に府主教座を公式にウラジーミルからモスクワに移し、モスクワは宗教面からも優位を支えられた。

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