伝記
アル・カポネは1899年、ニューヨーク市ブルックリン区に生まれた。イタリア南部から移住した家庭の九人兄弟の四男で、父は理髪師、母は裁縫の仕事をしていた。小学校では成績がよかったが、教師とのけんかを機に学校へ通わなくなった。十代で街のギャング団に加わり、銃の扱いを覚えた。酒を飲まない少年だったという証言もある。ニューヨークの酒場で働いていた頃、客の兄にナイフで頬を切られたことから、「スカーフェイス」の通り名がついた。
ギャングの幹部ジョニー・トーリオと知り合い、その紹介で出会ったフランキー・イェールの店で皿洗い、給仕、バーテンダー、用心棒などを務めた。1920年ごろ、トーリオに呼ばれてシカゴへ移り、賭博場や売春宿で働いた。やがてトーリオの組織で支配人となり、1925年にトーリオが引退すると縄張りを引き継いだ。二十六歳で組織の首領となったカポネは、禁酒法下で密造酒の販売を広げた。市議会議員や警察官を買収し、商売敵との抗争を繰り返した。自宅を買うと妻や息子だけでなく、母や兄弟もブルックリンから呼び寄せた。市長が交代し政治改革が続くと考えると、事業の本部を近郊のシセロへ移した。1929年には組織の年間収益が六千二百万ドルに達したと報じられた。
抗争は大きな犠牲を生んだ。カポネは商売敵のジョージ・モランが自分の命を脅かす存在だとみて、部下のジャック・マクガーンに暗殺を認め、費用を渡す約束をした。1929年2月、マクガーンらはモラン一味を狙った聖バレンタインデーの虐殺を実行し、事件は全米で報じられた。カポネは当時マイアミに滞在していたが、警察は彼を疑って電話記録などを調べた。同年5月には暗黒街の会議後、拳銃の不法所持で逮捕された。世間の非難をそらすための演出とされ、約十か月服役した。カポネはジャズの愛好家でもあり、秘密の酒場で黒人演奏家を雇った。黒人やユダヤ人に人種差別をしなかったとされ、白人の密造酒を厳しく扱う一方、黒人の販売は認めることもあった。1930年にはシカゴで貧しい人々に食事を出す無料給食所を運営し、市民から歓迎された。一方、食材は地元商店から集められ、運営費の多くをカポネ自身が負担したわけではなかった。
連邦政府は密造酒販売と所得税の脱税の両面から捜査し、カポネは1931年に脱税で起訴された。裁判前に陪審員候補の買収を試みたが、密告で候補者が入れ替えられ、計画は失敗した。会計係の証言などを経て、懲役十一年と罰金五万ドルの判決を受けた。刑務所では当初、職員を買収して組織を動かしたが、1932年にアトランタの刑務所へ移された。さらに同年、アルカトラズ刑務所へ移送された。当局は逃亡や奪還を恐れ、客車に乗せたまま船で刑務所まで運んだ。服役中は靴の修理や浴室掃除をし、週末には囚人仲間とバンジョーを演奏したという。1938年の検査で梅毒が確認され、症状を抑えるためマラリアを接種されたが、効果はほとんどなかった。
若い頃に感染した梅毒は刑務所生活の中で悪化し、心身も衰えた。1939年に釈放され、病院で治療を受けた後、家族とフロリダで暮らした。1945年には民間人として初めてペニシリンを投与されたが、病状は進んでいた。シカゴへ戻ることはなく、1947年1月25日、脳卒中に伴う肺炎で死去した。四十八歳だった。
同じ年に亡くなった人物
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