伝記
マックス・プランクは1858年、当時ホルシュタイン公国に属したキールに生まれた。父ヴィルヘルムは法学者で、母エンマは牧師の家系の出身だった。1867年に父がミュンヘン大学へ招かれ、一家はミュンヘンへ移った。少年期のプランクは学業に励み、エネルギー保存則に関心を寄せた一方、ピアノにも優れた才能を示した。数学、歴史、古典語にも興味を持ち、音楽家への道を相談したものの断念したとされる。物理学者フィリップ・フォン・ヨリーは物理学をすでに確立した分野と見て、熱力学に進むことに反対したという。1874年にミュンヘン大学へ進み、1878年にはベルリン大学に移って物理学を専攻した。本人は、数学だけでは解けない自然現象への興味から物理学を選んだと述べている。
ベルリンではヘルマン・フォン・ヘルムホルツとグスタフ・キルヒホフに学んだが、講義に満足できず、自ら論文を読み進め、とりわけルドルフ・クラウジウスの熱力学研究に強い印象を受けた。ミュンヘンに戻って学位論文をまとめ、1879年に学位を取得し、翌年には教授資格を得た。論文はエネルギー保存則とエントロピーを扱ったが、同時代の物理学者から広く認められたわけではない。キルヒホフに誤りを指摘され、ヘルムホルツにも読まれず、同種の研究をウィラード・ギブズが先に発表していたと知った。教授職の空きがなく無給の私講師として過ごした後、1885年にキール大学の員外教授となり、1887年にマリー・メルクと結婚した。二人にはカール、エンマ、グレーテ、エルヴィンの四人の子が生まれた。
1889年、ヘルムホルツの推薦を受けてベルリン大学へ移り、1892年に正教授となった。1894年にはプロイセン科学アカデミーの正会員に選ばれ、1895年ごろから黒体放射を研究した。ヴィーンの放射法則を修正し、波長の全域で実験と一致する式を見いだして、1900年に発表した。さらに光のエネルギーが最小単位の整数倍を取ると仮定すれば説明できると考え、同年に放射法則を導いた。この過程で導入された定数はプランク定数と呼ばれるようになった。連続的でないエネルギーを想定する考えは当時の古典物理学では説明しきれなかったが、後に複数の研究者が発展させ、量子力学の基礎となった。1905年にアインシュタインが特殊相対性理論を発表すると、プランクはいち早く取り上げて擁護し、科学者の間に広める役割を担った。一方、光量子論には慎重な立場を取った。私生活では、1909年に妻マリーを結核で亡くし、1911年にマリーの姪マルガ・フォン・ヘスリンと再婚した。
第一次世界大戦の初め、プランクはドイツの戦争を支持する声明に署名したが、戦争が続くにつれて考えを改め、1915年には署名について非公式に謝罪した。1916年に長男カールが戦死し、次男エルヴィンは捕虜となった。さらに二人の娘も出産後に亡くなり、四人の子のうち三人を失った。1918年にノーベル物理学賞の受賞が決まり、1920年に授賞式へ出席した。戦後はドイツ科学の研究費を集める組織の設立に協力し、委員として量子力学研究への支援にも関わった。1926年にベルリン大学の教授職を退き、後任をシュレーディンガーに譲った。プランクは1947年10月4日に没した。「量子論の父」とも呼ばれる。
同じ年に亡くなった人物
- マルティン・クレイン (1947年没)
- ヤン・マリペトル (1947年没)
- 谷寿夫 (1947年没)
- フリードリッヒ・パッシェン (1947年没)
- 横光利一 (1947年没)
同じ地域に関係する人物
- シャルロッテ・ブッフ (1828年没)
- ダフィット・ヒルベルト (1943年没)
- ヨーゼフ・クラーマー (1945年没)
- ヘルマン・オルデンベルク (1920年没)
- アーネスト (ヨーク・オールバニ公) (1728年没)