HISTORICAL PERSON · 1947年没

ウィラ・キャザー

米国の女流小説家。20世紀初めの米国を代表する作家の一人で、1923年にピュリッツァー賞を受賞した。長編『おお開拓者よ!』などがある。

生涯
1947年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / マンハッタン区)
出生地
アメリカ合衆国(ゴア)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ウィラ・キャザーは1873年、アメリカ合衆国ヴァージニア州に生まれた。母は元教師で、キャザーには六人の弟妹がいた。姉妹より兄弟と親しかったという。一家は生後1年ほどで、父方の祖父母から贈られたウィンチェスター近郊の約130エーカーの家へ移った。九歳の時に一家はネブラスカ州へ移り、父は約18か月の農場経営を経て、町のレッド・クラウドで不動産や保険の仕事を始めた。この町で子どもたちは初めて学校に通った。地元のユダヤ人夫妻と親しくなり、夫妻が持つ大きな蔵書を読む機会も得た。農場や町で出会った移民や先住民の暮らし、広い草原や天候は、後の作品の舞台や主題になった。地元の医師に同行した経験から外科医を志した時期もあり、読書に親しんでいた。初期の文章は地元紙に載り、一時はウィリアムと名乗ったが、ほどなくウィラに戻した。

1890年に高校を終え、ネブラスカ大学に進学した。入学後、トーマス・カーライルについて書いた文章が本人の知らないうちに新聞に掲載された。大学新聞の主筆も務め、友人で後に陸軍大元帥となるジョン・J・パーシングから数学を教わった。地元紙にも定期的に寄稿し、記事一本につき一ドルを得ていた。当初は科学を学んで医師になる計画だったが、専攻を英文学に変え、1895年に卒業した。翌年、女性誌の執筆職を得てピッツバーグへ移り、記事や詩、短編小説を書いた。初期の短編には、男勝りに見えるネブラスカの少女が父親の銀行を救う物語もあった。雑誌が売却された後は新聞の編集者や批評家となり、中央高校でラテン語や代数、英作文を1年教えた後、アレゲニー高校で英語とラテン語を教え、英語科の主任に就いた。

ピッツバーグで約十年働いた後、1906年にニューヨークへ移り、雑誌編集者として働きながら創作を続けた。開拓時代の西部や、移住者が新しい土地に築いた生活を題材にした小説を発表し、土地の風景とそこに暮らす人々を描いた。初期の長編には1912年の『アレグザンダーの橋』、翌年の『おお開拓者よ!』、1915年の『ひばりの歌』がある。短編小説には『ポールの場合』『隣人ロシキー』などがある。20世紀初頭のアメリカ文学を代表する作家の一人として知られた。

1918年の1918年には『マイ・アントニーア』を発表した。第一次世界大戦を題材にした『われらの一人』は1922年に刊行され、翌年ピュリッツァー賞を受けた。その後も1923年の『迷える夫人』、1925年の『教授の家』、1926年の『私の不倶戴天の敵』、1927年の『大司教に死来る』、1931年の『巌の上の影』、1935年の『ルーシー・ゲイハート』、1940年の『サファイラと奴隷娘』などの小説を発表した。作品には、過去を懐かしむ思いや故郷を離れた者の感覚が主題として繰り返し現れた。

キャザーは33歳で移ったニューヨークを主な住まいとし、各地を旅しながら、夏にはカナダ東岸の島で過ごすこともあった。編集者エディス・ルイスとは約39年間生活を共にした。1947年、ニューヨークで乳がんと診断された後、脳出血により73歳で死去し、ルイスとともにニューハンプシャー州に埋葬された。

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