HISTORICAL PERSON · 1996年没

ウィリアム・ヴィックリー

カナダ生まれのアメリカの経済学者。情報の非対称性下のインセンティブの研究で1996年ノーベル経済学賞を受賞したが、発表の3日後に死去した。

生涯
1996年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
カナダ(ビクトリア)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ウィリアム・スペンサー・ヴィックリーは、1914年6月21日、カナダのブリティッシュコロンビア州ビクトリアに生まれた経済学者である。父チャールズ・ヴァーノン・ヴィックリーは会衆派の牧師で、母はエイダ・イライザ・スペンサーといった。一家は彼が幼いころにニューヨークへ移り、父はアメリカ・アルメニア・シリア救済委員会の総書記を務めた。同委員会は、アメリカで最も早い時期の人道支援組織の一つとされる。高校はマサチューセッツ州アンドーヴァーのフィリップス・アカデミーで学び、1931年に卒業した。1935年にイェール大学で数学の学士号を得たのち、1937年にコロンビア大学で経済学の修士号を取った。

博士課程での研究は第二次世界大戦によって中断され、国家資源計画局、のちに財務省の税務調査部で働いた。1939年には、公共事業の最適な料金に関する研究にも携わっている。1946年にコロンビア大学の講師となり、1948年、500ページに及ぶ論文「累進課税のアジェンダ」で博士号を得た。この論文は1972年に出版された。1950年にはシャウプ使節団の一員として日本を訪れ、マッカーサーの下で日本の土地改革に力を貸した。1951年にはニューヨーク市の委託を受けて地下鉄の料金体系を研究し、この年にセシル・トンプソンと結婚した。1958年にコロンビア大学の教授となり、1964年から1967年まで経済学部長を務め、1971年にはマックヴィッカー政治経済学教授の職に就いた。経歴を通じてコロンビア大学を離れず、教え子にはジャック・ドレーズらがいる。

研究の柱の一つはオークションである。ゲーム理論の道具を使ってオークションの仕組みを初めて説明した人物とされ、代表的な論文でいくつものオークション均衡を導き、収入同値定理の早い段階の結果も示した。この定理は現代のオークション理論の中心であり、ヴィックリー・オークションにも彼の名が残っている。もう一つは価格設定の理論で、道路などのサービスは、需要があるのに容量が限界まで使われている状況での費用が利用者に見えるよう価格を付けるべきだと説いた。これは混雑課金の考え方で、のちにロンドンで部分的に実施された。公共経済学ではホテリングの限界費用価格の考えを発展させ、公益事業や交通機関の資金は、その時々の需要に応じた短期の限界費用価格で賄う必要があると論じた。さらに、生産や労働への課税を土地保有に対する課金に置き換えれば地方の経済効率は高まると主張し、思想面ではケインズとヘンリー・ジョージの影響を受けた。シカゴ学派を厳しく批判し、失業が多い時期に均衡予算やインフレ抑制を政治の中心に据えることにも声高に反対した。

1979年にシカゴ大学から名誉博士号を贈られ、1982年に退官して名誉教授となった。1992年にはアメリカ経済学会の会長と米国科学アカデミーの会員になっている。クエーカー教徒で、スカーズデール友会の会員でもあった。1996年10月8日、情報の非対称性のもとでのインセンティブの経済理論への貢献により、ケンブリッジ大学のジェームズ・マーリーズとともにノーベル経済学賞が発表された。しかしその3日後の10月11日、自らが設立に加わった地価課税を支持する研究者の会議へ向かう途中、ニューヨーク州ハリソンで心臓発作により亡くなった。ノーベル賞は死者に与えない規定だが、受賞決定後の死去では取り消されない。賞は同僚のC・ロウェル・ハリスが代理で受け取った。ブリティッシュコロンビア州生まれのノーベル賞受賞者は、彼ただ一人である。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物