HISTORICAL PERSON · 1349年没

ルキーノ・ヴィスコンティ (ミラノの僭主)

ミラノの僭主。数々の戦いを経て領土を拡大したが、残酷な統治で恐れられ急死し、妻による毒殺説がある。

生涯
1349年没
死亡地
イタリア共和国(ミラノ県 / ミラノ)
出生地
イタリア共和国(ミラノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ミラノ県)

伝記

ルキーノ・ヴィスコンティは、十四世紀前半にミラノを治めた僭主である。1287年頃、マッテーオ1世・ヴィスコンティとボナコッサ・ボッリの第四子として生まれた。生年は1292年頃ともいわれる。次兄のマルコとともに軍人の道に進み、1314年にはピエモンテで教皇派と戦った。1315年にはトスカーナでの戦いに加わって傷を負い、同じ年にパヴィーアの領主に任じられたとされる。1316年にサルッツォ侯の娘ヴィオランテと結婚したが、翌年に死別して子はなかった。1318年にジェノヴァ人オベルト・スピノラの娘と再婚したが、この妻との間にも子はなく、彼女は1339年頃に世を去った。1319年にはモンカステッロの勝利に協力し、トリゼッレの戦いで再び傷を負った。1320年にはヴィジェーヴァノの市長となった。

ヴィスコンティ家とミラノは1321年から破門と政務停止の処分を受けており、ルキーノ自身も1323年に教皇から異端の疑いをかけられた。1337年にはマスティーノ・デッラ・スカーラと戦い、マントヴァの近くで退却を選んでいる。1339年にはヴィスコンティ軍の指揮をとり、パラビアーゴでロドリジオ・ヴィスコンティを破った。この人物は従兄弟とも甥ともいわれる。同じ年、ミラノの僭主であった甥のアッツォが子を残さず世を去った。マルコもすでに子なく亡くなっていたため、男系の継承者は兄のジョヴァンニとルキーノだけとなり、二人が共同でミラノを治めることになった。ジョヴァンニは統治の実際をルキーノに任せたという。この年にはジェノヴァの武将の娘イザベッラ・フィエスキと三度目の結婚をし、のちに嫡出の子を得ている。

ルキーノは残酷な僭主で貴族の敵であったとされる。フランチェスコ・プステルラが謀反を企てたが陰謀は発覚し、プステルラとその一味は処刑された。この陰謀には弟ステーファノの子であるマッテーオ、ガレアッツォ、バルナバーも加わっていたが、ルキーノは三人を罰しなかった。1341年に教皇の許しを得てミラノの支配が追認され、1342年には教皇クレメンス6世の勅書によって異端の疑いも解かれた。その1342年にはベッリンツォーナをルスカ家から奪い、ロカルノ、アスティ、トルトーナ、アレッサンドリア、アルバ、ケラスコも併合した。このためアンジュー家やサヴォイア家と敵対した。1344年にはピサとの戦争を始め、1346年にエステ家の領土の一部であるパルマが譲られて戦争は終わった。

1346年には甥たちが再び陰謀をめぐらせたため、ルキーノは三人をミラノから遠ざけて追放した。マッテーオはモンフェッラートへ、ガレアッツォはパレスチナやフランドルへ、バルナバーはサヴォイアやフランドル、フランス王フィリップ6世の宮廷へと旅をした。この年、妻イザベッラは双子を産み、うち一人のルキーノ・ノヴェッロが育った。ただし夫婦の仲はうまくいっていなかったという。ルキーノの最後の事業は、モンフェッラート侯ジョヴァンニ2世・パレオロゴスとマントヴァのルドヴィーコ・ゴンザーガとの戦争であったが、1349年1月24日に急死したため最後まで指揮できなかった。妻イザベッラに毒殺されたともいわれる。跡は兄のジョヴァンニが継いだ。1354年には、妻の不貞のうわさを口実に、甥たちがルキーノ・ノヴェッロを自分の相続からも兄ジョヴァンニの相続からも外した。庶子には、トルトーナの領主やローディの市長を務め、詩人としても知られてペトラルカの友人であったブリツィオと、ボルソがいる。

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