伝記
フリードリヒ2世は、1310年11月30日にゴータで生まれたマイセン辺境伯である。父はマイセン辺境伯フリードリヒ1世、母はエリーザベト・フォン・アルンスハウクで、ヴェッティン家の一族に属する。1323年に父が亡くなると、母の後見のもとでマイセン辺境伯とテューリンゲン方伯の地位を単独で相続した。同じ1323年にニュルンベルクで、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の娘マティルデと結婚したともいわれるが、結婚は1328年だったとする記述もある。深刻伯、痩身伯とも呼ばれた。
1329年に成人すると、自ら統治に乗り出した。ヴァイマール=オーラミュンデ伯やシュヴァルツブルク伯らとは長年にわたって争い、その戦いは家臣や親近者とともに展開された。1338年に発した平和令は小領主たちの権利や影響力を大きく削り、彼らを君主のもとに従わせることを狙ったものであった。これに対して特権と自立を失うことを恐れた貴族たちが、1342年にアルンシュタットに集まって同盟を結び、テューリンゲン伯戦争と呼ばれる戦いが1346年まで続いた。1342年から1346年にかけては、マインツ大司教ハインリヒ3世・フォン・フィルネブルクとも争った。妻マティルデは1346年に世を去った。
1347年に岳父のルートヴィヒ4世が死去すると、義弟のバイエルン公ルートヴィヒ5世らバイエルン派は、フリードリヒ2世にローマ王への推戴をほのめかした。しかし彼は、選帝侯たちの支持が当てにならず提案も煮え切らないと不信感を抱いてこれを断り、すでにローマ王に選ばれていたルクセンブルク家のカール4世を支持する形となった。その後は自らの領土の強化に力を注ぎ、カール4世はこれに危機感を募らせたが、1348年にバウツェンで会談した両者は、互いの領土の現状を認め合った。フリードリヒ2世は翌1349年11月18日にヴァルトブルクで亡くなり、アルツェラ修道院に葬られた。
マティルデとの間には9人の子が生まれた。長女エリーザベトは1329年に生まれ、のちにニュルンベルク城伯フリードリヒ5世の妻となった。翌1330年に生まれたフリードリヒはその年のうちに没した。1332年生まれのフリードリヒ3世はマイセン辺境伯となり、1336年生まれのバルタザールはテューリンゲン方伯となった。そのほか、1339年生まれのベアトリクスと1345年生まれのアンネは修道女となり、1340年ごろ生まれのルートヴィヒはマクデブルク大司教に、1343年生まれのヴィルヘルム1世はマイセン辺境伯になった。末のクララは1345年に生まれた。フリードリヒ2世は、ザクセン=コーブルク=ゴータ家を通じて、英国、ポルトガル、ブルガリアなどの王家の祖先にもあたる。
同じ年に亡くなった人物
- シハーブ・アッ=ディーン・アブー・アル=アッバース・アフマド・イブン・ファドル・アッラーフ・アル=ウマリー (1349年没)
- ボンヌ・ド・リュクサンブール (1349年没)
- リュラのニコラス (1349年)
- マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク (ハンガリー王妃) (1349年没)
- トーマス・ブラドワーディン (1349年)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・アンブロジウス・バッハ (1695年没)
- ルート・フックス (2023年没)
- マファルダ・ディ・サヴォイア (1944年没)
- エルンスト1世 (ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公) (1675年没)
- マグダレーナ・アウグスタ・フォン・アンハルト=ツェルプスト (1740年没)