伝記
デヴィッド・ウォーク・グリフィスは、1875年1月22日にアメリカ合衆国ケンタッキー州ラグレーンジに生まれた映画監督である(クレスウッド生まれとする説もある)。父は南北戦争で南軍の英雄とされた大佐ジェイコブ・ウォーク・グリフィスで、大きな農場を経営し州議会議員も務めたが、戦後に没落し、息子が10歳の時に亡くなった。その後はエレベーターボーイや本屋の店員など様々な職を転々とし、慈善公演の舞台に立ったことから地方劇団に加わり、俳優として歩み始めた。
31歳でニューヨークに進出し、1906年に女優のリンダと結婚した。舞台の演出家を夢見て戯曲や詩を売り込んだが、金銭的に行き詰まり、1907年にエドウィン・S・ポーターへ自作の脚本を持ち込んだ。脚本は採用されなかったものの、俳優として雇われ、同年に映画デビューを果たした。しかし自分の脚本が採用されないことに鬱々とした彼は、1908年にバイオグラフ社へ脚本を持ち込み、素質を認められて妻とともに入社した。俳優をつとめながら数十本のシナリオを書き、同年6月には撮影技師に誘われて『ドリーの冒険』で監督デビューした。正味15分ほどの短編で、まだワンシーン・ワンショットの撮影だったが、ヒットした。以後1913年までに、撮影技師ビッツァーとのコンビで450本以上の短編を手がけている。
1913年に初の長編を製作したが、当時は長編映画が普及しておらず、会社はこれをお蔵入りにし、その後も長編を撮らせなかった。そのため彼はバイオグラフ社を去ってハリウッドに渡り、ミューチュアル社と契約した。1915年、ハリー・エイトケンとともに創設した会社の出資で『國民の創生』を製作した。KKKの誕生物語を南部白人の立場から描いた作品で、北部では上映を拒まれたが、作品自体は大ヒットとなった。翌1916年には、四つの時代の物語を同時並行で描く『イントレランス』を製作した。当時として革新的だったが難解との評判を呼び、アメリカ国内では商業的に失敗した。一方でヨーロッパ諸国では絶賛され、レーニンが深く感銘を受けてロシア全土での上映を命じ、1922年にグリフィスを招いてソ連映画界の指導者に任じようとしたという逸話が知られる。1919年にはチャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードとともにユナイテッド・アーティスツ社を創設し、『散り行く花』『東への道』などを発表した。
彼の功績は映画文法の確立にある。それまでの映画は固定カメラのワンシーン・ワンショットが中心だったが、彼は一つの場面を複数のショットで構成し、ショットを繋いで劇的な効果を生み出した。異なる場所で同時に起こる場面を交互に繋ぐクロスカッティングも彼が創始した技術とされ、「最後の瞬間の救出」の演出に用いられた。移動撮影、フラッシュバック、フェードイン・アウトなども彼が生み出した技法に数えられ、こうした功績から「映画の父」と呼ばれる。リリアン・ギッシュやマック・セネットら、多くの映画人も彼のもとから巣立った。
1930年に初のトーキー作品を発表し、翌1931年の『苦闘』が最後の監督作となった。1936年にアカデミー賞特別賞を受けたが、同年に妻リンダと離婚して女優のイヴリン・ボールドウィンと再婚し、1947年にまた離婚した。1948年7月23日、ロサンゼルスのホテルで脳溢血のため死去した。晩年は酒浸りの生活だったという。1953年に全米監督協会は彼の名を冠した賞を創設したが、『國民の創生』の人種差別的な描写を理由に批判し、1999年にこの賞は廃止された。
同じ年に亡くなった人物
- セルゲイ・エイゼンシュテイン (1948年没)
- エヴゲニー・スルツキー (1948年没)
- アビー・アルドリッチ・ロックフェラー (1948年没)
- 広田弘毅 (1948年没)
- アンドレイ・ジダーノフ (1948年没)
同じ地域に関係する人物
- ローザ・スミス=アイゲンマン (1947年没)
- スタッフォード・レップ (1974年没)
- チャールトン・ヘストン (2008年没)
- ヘンリー・コスター (映画監督) (1988年没)
- レイラ・ハイアムズ (1977年没)