伝記
太宰治(本名は津島修治)は、1909年6月19日、青森県北津軽郡金木村に生まれた日本の小説家である。県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たねの六男で、11人兄弟の10番目だった。父は県会議員から衆議院議員、貴族院議員を務めた名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれた。父が多忙で母が病弱だったため、乳母や叔母、女中の手で育てられた。小学校では開校以来の秀才といわれ、1923年に父が肺癌で亡くなった後は青森中学校に進み、下宿しながら級長を務めた。芥川龍之介や志賀直哉を愛読し、井伏鱒二の『山椒魚』には座っていられないほど興奮したという。17歳頃に習作「最後の太閤」を校友会誌に書き、友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行して、小説家を志すようになった。
1927年に弘前高等学校に入学したが、夏に芥川の自殺を知って衝撃を受け、翌年には芸者の小山初代と知り合った。1929年にはカルモチンで自殺を図っている。1930年に東京帝国大学の仏文学科へ進むと井伏鱒二に弟子入りし、上京した初代との結婚を主張して長兄文治に認められる代わりに分家除籍となった。その10日後の11月28日、銀座のバーの女給田部シメ子と小動岬でカルモチン自殺を図り、田部だけが亡くなった。太宰は自殺幇助罪に問われたが、起訴猶予となった。太宰はこの事件を『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いたが、当時の新聞は、睡眠薬を飲んで海岸で倒れているところを発見されたと報じている。その後、碇ヶ関温泉で初代と仮祝言をあげ、文治と覚書を交わして、問題を起こさず大学を卒業することを条件に毎月120円の仕送りを受けることになった。
1933年、短編『列車』で初めて太宰治の筆名を使った。1935年には大学を卒業できそうになく、新聞社の入社試験にも落ち、鎌倉で首吊りを図った。続いて腹膜炎の手術を受け、入院中に鎮痛剤パビナールの依存症となる。同年に除籍となった。『逆行』が第1回芥川賞の候補となるも落選し、選考をめぐって川端康成に反論する文章を発表している。1936年には処女短編集『晩年』を刊行したが、第3回の選考では候補にすらならなかった。薬物依存は深まり、多い時には1日50本を注射するほどで、10月には東京武蔵野病院に強制入院させられた。翌1937年に初代と離別した。
1938年、井伏の紹介で石原美知子と見合いし、乱れた生活を反省する「結婚誓約書」を差し出した。翌年に結婚して甲府に移り、まもなく三鷹に転居すると精神的にも安定し、『女生徒』『富嶽百景』『駆込み訴え』『走れメロス』などの短編を発表した。1941年には文士徴用令に呼ばれたが、身体検査で肺浸潤とされて免除された。戦争中も『津軽』『お伽草紙』など旺盛に創作を続け、1945年の空襲で甲府に疎開したのち、津軽の津島家で終戦を迎えた。戦後は、没落した華族を描いた『斜陽』が1947年に単行本で出版されてベストセラーとなり、「斜陽族」が流行語になった。
1948年には『人間失格』『桜桃』を書きあげた。愛人の美容師山崎富栄との関係が深まるなか、6月13日、玉川上水で富栄と入水し、38歳で亡くなった。遺体は6日後の6月19日、39回目の誕生日に発見された。この日は短編『桜桃』にちなみ、同郷の今官一によって「桜桃忌」と名づけられた。
同じ年に亡くなった人物
- ダールノキ・ミクローシュ・ベーラ (1948年没)
- 板垣征四郎 (1948年没)
- マリア・ルイーゼ・フォン・ハノーファー (1948年没)
- 東條英機 (1948年没)
- アンリエット・ド・ベルジック (1948年没)