伝記
ジョン・ジョゼフ・パーシングは、1860年9月13日にミズーリ州ラクリード近郊の農場で生まれたアメリカ合衆国の陸軍軍人である。父は地元で店を営む実業家で、一家は翌年初めに町へ移った。ラクリードの選抜的な学校で学び、1878年に中等学校を卒業すると近隣で教師となって、地元の黒人の子どもたちの教育にも関わった。この経験が人種問題への理解を深め、のちに黒人兵を率いる際に役立ったとされる。1880年から82年までミズーリ北部師範学校に通い、1882年の春、二十一歳で陸軍士官学校への入学を願い出た。のちに妹へ、軍人を志す気持ちよりも、当時のミズーリの田舎では得られない質の高い教育を受けたい思いのほうが強かったと打ち明けたという。
1882年秋に士官候補生となると、早くから指導力を発揮して昇進を重ね、士官学校で最高の位である第一大尉にまで至った。グラント大統領の葬列の儀仗隊も指揮した。1886年夏に卒業し、校長のウェズリー・メリット将軍から指導力と優れた資質を称えられた。同年秋に少尉に任官したが、この年の4月5日に父を、その十日余り後に母を亡くし、深く落胆したと伝えられる。配属された第6騎兵連隊ではニューメキシコのフォート・ベイヤードなどで勤務し、アパッチ族との戦いで勇敢さを認められた。射撃の名手で、1891年にはピストルで全軍第2位、ライフルで第5位の成績を収めた。1891年からネブラスカ大学リンカーン校で軍事戦術の教官を務め、1893年には法科の課程を修了した。このとき自ら育てた訓練中隊は、のちに「パーシング・ライフルズ」と呼ばれる組織の起こりとなった。
中尉に昇進した後は、アフリカ系の兵士で編成された部隊に配属された。この経歴にちなみ、士官学校の教官となった1897年ごろから、厳しい指導ぶりもあって候補生に恐れられ、差別的なあだ名で呼ばれた。第一次世界大戦で取材した記者がこれを「ブラック・ジャック」とやわらげて報じ、現在はこちらの名が広く知られる。1898年に少佐として米西戦争に加わってキューバに遠征し、サン・ファン丘の戦いで活躍した。1899年からはフィリピンに赴き、米比戦争で暴動の鎮圧などに功を立てた。1905年には東京に駐在武官として赴き、日露戦争では黒木為楨の率いる第1軍に観戦武官として従軍した。同じ年にワイオミング州選出のウォーレン上院議員の娘と結婚し、秋に帰国すると三階級を飛び越えて准将に昇進した。このため、能力ではなく岳父のコネによる昇進だと軍内で揶揄された。1909年から1912年まではフィリピンでモロ州総督を務めた。1915年にはサンフランシスコの自宅が火事になって妻と三人の娘を失い、六歳の息子フランシス・ウォーレンだけが助かった。
1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、ウィルソン大統領はパーシングをヨーロッパ派遣軍の総司令官に指名した。1918年にはムーズ=アルゴンヌの攻勢などを指揮して連合国の勝利に貢献し、副官のジョージ・マーシャルやダグラス・マッカーサーらが麾下にあった。一方で前線から遠い後方で指揮をとり、現場の指揮官の意見をしばしば退けたため、部下との間に軋轢も生じたという。1919年には彼のために設けられた合衆国総軍元帥の地位に就き、1921年から1924年に退役するまで陸軍参謀総長を務めた。1931年の回顧録『世界大戦での経験』は翌年のピューリッツァー賞を受けた。第二次世界大戦を生き延び、1948年7月15日にワシントンで没し、国葬で送られた。パーシング中距離弾道ミサイルやパーシング戦車に、その名が残る。
同じ年に亡くなった人物
- フーゴ・フェルディナント・ボス (1948年没)
- ミレヴァ・マリッチ (1948年没)
- プンペウ・ファブラ (1948年没)
- ヤヒヤー・ムハンマド・ハミードゥッディーン (1948年没)
- ソロモン・ミホエルス (1948年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・カーク・タウンゼント (1851年没)
- Abu Salma (1980年没)
- ウォルター・ラカー (2018年没)
- ダニエル・パトリック・モイニハン (2003年没)
- アーネスト・グリューニング (1974年没)