伝記
フェルディナントは、1861年2月26日にウィーンで生まれた人物で、ブルガリア公(在位1887年から1908年)、のちにブルガリア国王(在位1908年から1918年)となった。ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アウグストと、フランス国王ルイ・フィリップの娘クレマンティーヌ・ドルレアンの末息子であり、一族の中でもハンガリーの大貴族の名跡を継いだカトリック系の分家、コハーリ侯爵家の出である。ポルトガル王配フェルナンド2世の甥にあたり、イギリスのヴィクトリア女王の従甥でもあった。
1886年にブルガリア公アレクサンダー・フォン・バッテンベルクが陰謀によって退位を余儀なくされ、その約十か月後の1887年7月7日、オーストリア政府が推す候補だったフェルディナントが新しいブルガリア公に選ばれた。公国は形式上オスマン帝国領内の自治領であり、オスマン帝国政府とヨーロッパ列強が彼を元首と認めたのは1896年になってからである。治世の初めには、首相ステファン・スタンボロフが主導する自由主義改革が進んでいたが、ロシアは西側が推した新公の選出を快く思っておらず、国際的には従来の庇護者ロシアと距離ができていた。スタンボロフが1894年に失脚し、翌年に暗殺されるとブルガリアはふたたびロシアへ接近する。フェルディナントはロシアの歓心を買うため、1896年に世継ぎの長男クレメントをカトリックから正教に改宗させた。皇帝ニコライ2世が洗礼の代父となり、息子はボリスと名を改めた。
1908年10月5日、オスマン帝国政府がボスニア危機で行き詰まったのを好機とみて、ブルガリアの完全独立を宣言し、君主の称号を公から王に改めた。第一次世界大戦の前まで彼が目ざしたのは、バルカン諸国がオスマン帝国の欧州領を分割するなかで、ブルガリアにできるだけ大きな領土を確保し、この地域の覇権国に押し上げることだった。そのためバルカン同盟に加わり、1912年に第一次バルカン戦争を始めて数週間で勝利した。翌1913年5月のロンドン条約でトラキアとエーゲ海への出口を確保したが、同年、マケドニアの領有をめぐってセルビアやギリシャと対立して第二次バルカン戦争を起こす。ブルガリアはセルビア、ルーマニア、ギリシャ、モンテネグロ、オスマン帝国に攻められて短期間で敗れ、8月10日のブカレスト条約で南ドブロジャをルーマニアに、エディルネをオスマン帝国に割譲した。
1915年9月6日、フェルディナントは中央同盟国側に立って参戦した。セルビアやギリシャへの雪辱の好機とみたとされる。独墺軍と組んだブルガリア軍は当初優勢で、セルビア領のヴァルダル・マケドニアやギリシャ領トラキアを占領し、ルーマニア征服でドブロジャ全域も支配下に置いた。しかしその後は連合国の勝利が続き、1918年9月30日に降伏する。敗北を見届けた彼は10月3日に退位し、長男のボリス3世が即位した。
退位後はオーストリアを経て、10月上旬にコーブルクへ移り、城の敷地内のヴィラに住んだ。この隠棲地で植物と昆虫の採集に熱中し、1930年と1933年には大規模な調査団を組織して東アフリカ、エジプト、スーダンへ学術調査に赴いた。アフリカから多くの鳥を持ち帰り、ヴィラの周りには百基もの大きな鳥かごが設けられたという。やがて鳥類学と植物学の専門家として知られ、ドイツ鳥類学会の名誉会員となり、エアランゲン大学から名誉学位を贈られた。1941年にはコーブルクの名誉市民とされ、1948年9月10日にアウグステン宮殿で没して、母と二人の兄が眠るコーブルクの墓所に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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- アビー・アルドリッチ・ロックフェラー (1948年没)
- ウンベルト・ジョルダーノ (1948年没)
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同じ地域に関係する人物
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- ヘルベルト・バッケ (1947年没)