伝記
バサラブ1世は、ワラキアのヴォイヴォド(総督)、のちに公となった人物で、ワラキアの文書で確認できる最も古い君主である。生年は不明で、出自についても分からない点が多い。ハンガリーの宮廷に出仕していた地方の豪族トコメリウスの子とされるが、その爵位は不詳である。名前はクマン人またはペチェネグ人の言葉で「父なる統治者」を意味する語に由来すると考えられている。ハンガリー王カーロイ1世は、のちに彼を「我らが不実なワラキア人」と呼んだ。即位の時期もはっきりせず、1310年ごろとも1319年ともされる。
13世紀半ば以降、のちのワラキアにあたる地域にはハンガリー王の臣下であるヴォイヴォドの領地が生まれたが、彼らはまもなく王権からの独立を求めるようになった。アールパード朝の末期にハンガリーが政治的な危機を迎えるなか、カルパティア山脈南部の封建地主たちは、アルジェシュ地方のバサラブを自分たちの指導者に立てた。1320年ごろ、バサラブはオルテニアとムンテニアの統一を達成し、ドナウ河口の港町にまで支配を広げた。この河口の一帯がバサラビア(ベッサラビア)と呼ばれるようになったという。
1324年7月26日付の文書で、カーロイ1世はバサラブを「我らがワラキアのヴォイヴォド」と呼び、臣下として扱っていた。ところが翌1325年6月18日付の文書には「ハンガリー王権に不誠実なワラキアのバサラブ」と記されている。1325年から1328年にかけては、ジョチ・ウルスとの戦いで数度勝利を収めた。1327年には教皇ヨハネス22世が、彼を「献身的なカトリックの公」と呼んで、ハンガリー王に対する反逆を擁護した。
バサラブはブルガリア皇帝ミハイル3世シシュマンの甥イヴァン・アレクサンダルに娘を嫁がせており、1330年にはミハイル3世のセルビア遠征に加わったが、ヴェルブジュドの戦いの結果は、セルビア側の勝利に終わった。戦後、バサラブはハンガリーの攻勢に備えて、ブルガリアとセルビアの双方と協約や婚姻の関係を結んだ。カーロイ1世はセヴェリン・バナトを占領するためワラキアに遠征した。バサラブは、毎年の貢納と銀7,000マルクの支払い、ハンガリーへの臣従を引き換えに和平を提案したが、王はこれを退けて進軍を続け、クルテア・デ・アルジェシュにまで至った。しかしハンガリー軍は食料の供給に困り、戦うことなくトランシルヴァニアへの撤退を迫られた。ワラキア軍はポサダでハンガリー軍を待ち受け、狭い峡谷を取り囲んだ。11月12日、3日間に及ぶ戦いの末にハンガリー軍は打ち破られ、カーロイ1世は命からがら戦場を脱した。
この勝利によってワラキアはハンガリーからの独立を達成した。1331年2月、バサラブは娘婿イヴァン・アレクサンダルのブルガリア皇帝即位に協力し、1331年から翌年にかけて、ワラキア軍はブルガリアの反ビザンツ戦争を支援した。この時期に、バサラブはハンガリーからセヴェリンを取り戻したと思われる。カーロイ1世の没後、ラヨシュ1世が王位に就くと、1343年と1345年にワラキアはハンガリーの攻撃を受け、再びセヴェリンを失った。共同統治者であった息子ニコラエ・アレクサンドルは、ハンガリーに形だけの臣従を示した。バサラブは1352年に没し、アルジェシュには彼の宮殿の廃墟が残る。子は、ブルガリア皇帝イヴァン・アレクサンダルの妃となったテオドラと、死後にワラキア公の地位を継いだニコラエ・アレクサンドルの2人である。
同じ年に亡くなった人物
- Matthias of Arras (1352年)
- Joan of Valois, Countess of Hainaut (1352年)
- エリーザベト・フォン・ケルンテン (1352年)
- クレメンス6世 (ローマ教皇) (1352年没)
- エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1285-1352) (1352年没)
同じ地域に関係する人物
- ミルチャ1世 (1418年没)
- ニコラエ・ドブリン (2007年没)
- イリエ・バルブレスク (2020年没)
- Nicolae Cretulescu (1900年没)