HISTORICAL PERSON · 1418年没

ミルチャ1世

老公と呼ばれたワラキア公。1394年のオスマン軍の侵攻にゲリラ戦で対抗し、1397年に復位して前進を阻止した。治世にワラキアの版図は最大となり、公権強化や経済発展、正教会の保護も進めた。

生涯
1418年没
死亡地
ルーマニア(アルジェシュ県 / クルテア・デ・アルジェシュ)
出生地
ルーマニア(クルテア・デ・アルジェシュ)
出典
世界地図
ルーマニア(アルジェシュ県)

伝記

ミルチャ1世は、ワラキアの公(在位1386年〜1395年、1397年〜1418年)である。孫のミルチャ2世と区別するため、「老公」と呼ばれる。19世紀以降、ルーマニアの歴史家は「偉大なるミルチャ」と呼んだ。ワラキアと敵対したオスマン帝国の人々やドイツの歴史家は、彼を「キリスト教徒の公の中で最も勇敢で、聡明な人物」と評した。1355年頃に、バサラブ朝の血を引くワラキア公ラドゥ1世の子として生まれた。1386年、異母兄ダン1世の跡を継いだ(公位を奪ったともいわれる)。

オスマン帝国の拡大に対して、共通の敵を持つハンガリー王ジギスムントと密接な関係を築いた。隣国モルダヴィアとも友好を保ち、1389年、モルダヴィア公ペトル・ムシャットを介して、ポーランド王ヴワディスワフ2世と同盟条約を結んだ。この条約は1404年と1410年に更新された。1388年にはドブロジャを、1388年から翌年にかけてセヴェリン地方を手に入れ、ミルチャの治世にワラキアの版図は最大になった。1390年からは、オスマン帝国の支配下にあるドブロジャを奪い返すため遠征を行った。1394年、オスマン皇帝バヤズィト1世が4万の大軍でダニューブ川を渡ると、ミルチャが集められた兵は1万ほどだった。緒戦で敗れたあと、彼は敵の食糧を断ち、小規模な攻撃と撤退を繰り返すゲリラ戦を展開した。10月10日、森と沼の多いロヴィネで両軍が衝突し、地形に展開を妨げられたオスマン軍は、ダニューブ川南岸へ後退したとされる。一方で、ミルチャはハンガリーへ退き、その間にオスマン側がヴラド1世を公位につけたともいわれる。

1395年に、ミルチャはダン1世の息子とも一貴族ともいわれる者に公位を奪われた。1396年7月、ジギスムントが提唱した反オスマン十字軍に参加したが、9月25日のニコポリスの戦いで十字軍は崩れた。その後、ミルチャはドブロジャをオスマン帝国に譲り、貢納を誓った。1397年、ハンガリーの支援でヴラド1世を破って復位し、ダニューブ川を渡ったオスマン軍の前進を阻んだ。1400年にもオスマン軍に勝利し、同じ年、息子ヴラド2世の舅となるアレクサンドル善良公を支援して、モルダヴィア公に即位させた。1402年のアンカラの戦いでバヤズィト1世がティムールに敗れ、オスマン帝国が分裂すると、ミルチャは周辺のキリスト教国と連合して、反オスマン運動を進めた。娘アリナは1403年にオスマンの王子ムーサ・チェレビと結婚している。1404年のブルガリアでの蜂起を支援してドブロジャを取り戻し、バヤズィトの4人の遺児のうち、当初はムーサを支持したが、支持者を次々に変えて、占領された土地の奪還を進めた。1415年、メフメト1世のもとで統一を回復したオスマン帝国に対し、領土の保持と信仰の自由を条件に臣従を誓った。

1418年1月31日に亡くなった。死後、公位は彼の息子たちとダン1世の息子たちの間で争われ、政権は短期間で交代し、公権は弱まって、地主貴族ボイェリの勢力が強まった。ミルチャの治世には、公権が強化され、高度な統治機構が整えられた。経済が発展して国家の収入が増え、ワラキアで鋳造された貨幣は国内外に広く流通した。ポーランドとリトアニアの商人に特権を与え、ブラショヴの商人の特権も更新した。ダニューブ川沿いの要塞を増築し、都市民と農民からなる「大軍隊」を編成した。正教会を厚く保護し、コジアにセルビアの教会を模した教会を建てた。孫にヴラド・ツェペシュ(ドラキュラ)がいる。

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