HISTORICAL PERSON · 1355年没

エリナー・オブ・ウッドストック

イングランド王エドワード2世の娘。ゲルデルン公レイナウト2世に嫁いだが宮廷を追放され、晩年は修道院で困窮のうちに没した。

生涯
1355年没
死亡地
オランダ(オーファーアイセル州 / デーフェンテル)
出生地
イギリス連邦(ウッドストック宮殿)
出典
世界地図
オランダ(オーファーアイセル州)

伝記

エリナー・オブ・ウッドストックは、1318年6月18日に生まれ、1355年4月22日に没した、イングランド王エドワード2世と王妃イザベラ・オブ・フランスの長女である。のちにゲルデルン(ヘルレ)公レイナウト2世の2番目の妻となり、ゲルデルンとズトフェンの女伯、のち公爵夫人となった。

エリナーはオックスフォードシャーのウッドストック宮殿で生まれた。王の第3子にあたり、兄に国王エドワード3世とコーンウォール伯ジョン・オブ・エルサム、妹にのちスコットランド王妃となるジョーンがいる。洗礼名は父方の祖母エリナー・オブ・カスティルにちなむ。王は娘の誕生を喜び、王妃の産後の儀式の宴に多くの費用を使い、王妃にも金を与えた。はじめ子どもたちは母のもとで育てられ、ウォリングフォード城に暮らし、身分にふさわしい教育を受けた。1324年、フランスとの対立が起こると、王の寵臣である若ディスペンサーとその父が、フランス人である王妃イザベラを国家の敵だと訴え、王妃の収入を大きく減らして子らの養育も取り上げた。このためエリナーは、妹ジョーンらとともに、従姉で若ディスペンサーの妻であるエリナー・ド・クレアに預けられ、のちには各地の城で暮らした。1325年にカスティーリャ王アルフォンソ11世との縁談が持ち上がったが、持参金をめぐる意見の対立で実現しなかった。

1326年に王妃が軍を率いて戻り、夫エドワード2世を廃位した。王は1327年に殺されたとされるが、生き延びてイタリアへ逃れたという話もある。1328年からエリナーはロンドンの兄エドワード3世の宮廷に暮らし、同じ年の7月には、スコットランドへ嫁ぐ妹ジョーンに付き添ってベリック・アポン・ツイードまで行った。1329年にはのちのフランス王ジャン2世との縁談が、翌年にはのちのアラゴン王ペドロ4世との縁談も考えられたが、いずれも実現しなかった。1330年、父を死に追いやった母と和解した。

1332年、母の従妹であるエノー伯爵夫人ジャンヌ・ド・ヴァロワの仲立ちにより、エリナーはゲルデルン公レイナウト2世に嫁いだ。夫は23歳年上であり、最初の妻ソフィー・ベルソーとのあいだには娘しかなく、エリナーは男子を産むことを期待された。夫妻には、1333年生まれのレイナウト3世と、1336年生まれのエドゥアルトの2人の息子が生まれた。しかし、両親の不和による不幸な幼少期が災いして精神的に不安定だったエリナーを、夫は疎ましく思うようになった。1338年、レイナウトは彼女が癩病にかかったと難癖をつけて宮廷から追放し、婚姻を解消しようとした。エリナーが病気でないと示したため、夫は受け入れざるをえなかったともいわれる。

1343年にレイナウト2世は事故で死んだ。宮廷に戻ったエリナーは、幼い息子レイナウト3世の摂政を務めようとしたが、1343年から1344年の短い期間で退かざるをえなかった。のちに成長した息子と不仲になり、次男エドゥアルトの反乱を後押ししたとされ、寡婦領を没収された。経済的に苦しいなか、フェルウェに移り住んで修道院を支援し、デーフェンテルの修道院を創設したともいわれる。1355年にその修道院で没し、葬られた。

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