伝記
ルドヴィーコは、1338年2月4日にカターニアで生まれ、1355年10月16日に没したシチリア王である。ルイージとも呼ばれ、幼童王と称される。父はシチリア王ピエトロ2世、母はエリザベッタ・ディ・カリンツィアである。生まれた日は守護聖女アガタの祝日で、父は誕生の当日に、王国の各都市に宛てて彼を後継者とする布告を出した。
1342年8月15日に父が亡くなったとき、ルドヴィーコはまだ4歳で、すぐには王の称号を与えられなかった。父方の伯父でランダッツォ公のジョヴァンニが摂政となり、5歳で王位を継ぐことになった。9月15日にパレルモの大聖堂で戴冠し、以後は王の称号を名のった。1344年の終わりごろには、アラゴン王ペドロ4世の生まれたばかりの娘コンスタンサとの縁談が持ち上がり、1346年6月にはハンガリー王ラヨシュ1世の使者が、王の親族との縁談を申し入れてきた。1347年11月7日にはカターニアで、シチリアの領有を主張していたナポリ王国と和約が結ばれた。島の独立は保たれたが、ルドヴィーコは古名にちなむ「トリナクリア王」の称号を名のることを求められた。この和約は、教皇クレメンス6世の承認を得られなかった。
1348年4月3日に伯父ジョヴァンニが亡くなると、遺言によって摂政は、カタルーニャ出身の貴族ブラスコ2世・アラゴーナに移った。同年6月、マッテオ・パリッツィがピサでの亡命先から戻ると、シチリア在来の貴族(キアラモンテ家、パリッツィ家など)と、カタルーニャ系の貴族(ペラルタ家、アラゴーナ家、ヴェンティミーリア家)の対立が深まり、内戦に発展した。ルドヴィーコの母はアンジュー派の側につき、マッテオを幼い王の後見人とした。1349年には戦いが本格化し、同じ年の5月から7月のあいだに母が亡くなって、年上の姉で修道院長のコンスタンツァがその役割を引き継いだ。1350年9月10日に停戦が結ばれ、王が成年に達して争いを裁けるようになるまで戦闘を止めることで両派は合意した。
1352年2月23日、ルドヴィーコが14歳になったのち、マッテオは彼に、自ら政治を行う意志を示す書簡をカターニアの人々に書かせた。ブラスコはこれを非難し、10月に和平が結ばれた。1353年6月9日には、味方のキアラモンテ家とともにメッシーナを出て、カストロレアーレの反乱を鎮めに向かった。同月22日に弟ジョヴァンニが亡くなり、メッシーナの大聖堂に葬られた。王への支持はかつての味方のあいだで薄れていき、7月17日にはメッシーナで民衆の暴動が起きた。摂政の期間は1354年までで、実際に王として統治した期間は短く、治世は内戦に彩られた。1355年、ルドヴィーコはペストの流行のなかで17歳で亡くなり、王位は弟のフェデリーコ3世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- Michael of Trebizond (1355年)
- イネス・デ・カストロ (1355年没)
- ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン (セルビア皇帝) (1355年没)
- マリーノ・ファリエロ (1355年没)
- マッテーオ2世・ヴィスコンティ (1355年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・シャープ (作家) (1905年没)
- ニノ・マルトグリオ (1921年没)
- サルヴァトーレ・リチートラ (2011年没)
- ジョヴァンニ・ヴェルガ (1922年没)
- エレオノーラ・ダンジョ (1341年没)