HISTORICAL PERSON · 1949年没

ゲオルギ・ディミトロフ

ブルガリアの共産主義者。国会議事堂放火事件で逮捕されたが裁判で無罪となり、コミンテルン書記長を務めた。戦後はブルガリアの首相となった。

生涯
1949年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ州 / Barvikha)
出生地
ブルガリア共和国(コヴァチェフツィ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ州)

伝記

ゲオルギ・ディミトロフは、1882年6月18日、ブルガリア西部のコヴァチェフツィ(現在のペルニク州)で、8人きょうだいの長子として生まれた。両親はオスマン領マケドニアから逃れてきた難民で、父は農村の職人だったが産業化のなかで工場労働者になることを余儀なくされた。母パラシュケヴァはプロテスタントで、息子を牧師にしたいと日曜学校に通わせたが、ディミトロフは12歳のときに追放された。一家はラドミル、続いてソフィアに移り、少年は植字工の修業をして労働運動に加わった。十代のうちに印刷工労働組合のソフィア支部の書記に選ばれている。きょうだいにも左翼の活動に加わる者が多く、兄ニコラはロシアに渡ってボリシェヴィキに加わったが、1908年に逮捕されてシベリアに流され、1916年に死んだ。姉レナは、のちの共産党指導者ヴァルコ・チェルヴェンコフに嫁いだ。

1902年にブルガリア労働者社会民主党に入り、翌年にはディミタル・ブラゴエフに従って「狭い党」と呼ばれる派に加わった。この党は1919年にボリシェヴィキ路線をとってブルガリア共産党となる。1904年から1923年まで、この派が握る労働組合総連合の書記を務めた。1913年にブルガリア議会の議員に選ばれると、バルカン戦争と第一次世界大戦での政府の政策に反対し、1915年には新たな戦時公債に反対票を投じてブルガリアの民族主義を非難し、短期間の禁錮刑を受けた。1917年夏、負傷兵が将校に一等車から降りるよう命じられたのを擁護した件で扇動の罪に問われ、議員の不逮捕特権を奪われて1918年8月29日に投獄された。釈放後は地下に潜り、1921年2月にようやくモスクワに着いた。同年のコミンテルン第3回大会に出席し、1922年12月にはプロフィンテルンの執行局員に選ばれている。1923年9月、ヴァシル・コラロフとともにツァンコフ政権に対する9月蜂起を指導したが失敗し、国外へ亡命して欠席裁判で死刑を宣告された。蜂起と弾圧で、共産党支持者が5千人ほど命を落としたともいわれる。

1929年にドイツへ移り、コミンテルンの中欧での活動を率いていた1933年、ベルリンの国会議事堂放火事件の容疑で逮捕された。ディミトロフは弁護人を断って自ら弁論に立ち、ナチス側の検事やゲーリングに論戦を挑んで、翌1934年に無罪となった。1935年にコミンテルン書記長に就き(1943年まで)、第7回大会で反ファシズム統一戦線戦術を提起して採択されたが、独ソ不可侵条約の締結後、スターリンの指示で棚上げされた。

1946年11月26日、22年ぶりにブルガリアへ帰国して首相に就任した。ユーゴスラビアのティトーと南スラヴ人の連邦を築く交渉を進め、1947年にブレッド協定を結んだが、構想の将来像やマケドニア問題をめぐる食い違いから行き詰まり、スターリンとティトーの決裂で放棄された。1949年7月2日、療養先のモスクワ近郊バルヴィハで死去した。遺体は防腐処理を受けてソフィアの廟に安置されたが、1990年に移されて中央墓地に葬られ、廟は1999年に撤去された。2000年には、1933年から没する直前まで本人が記していた日記が発見され、当時のコミンテルンの内情を伝える貴重な史料となった。小惑星(2371)ディミトロフは、彼の名にちなんで命名されている。

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