伝記
ダグラス・ハイドは、1860年1月17日にアイルランドのロスコモン県カスルリーで生まれ、1949年7月12日に没した学者であり、初代のアイルランド大統領である。アイルランド語の復興を進めた文化組織ゲール語連盟の創設に加わった人物としても知られ、1992年から発行されたアイルランドの50ポンド紙幣には、その肖像が使われた。
父アーサー・ハイドはプロテスタントのアイルランド国教会の教区司祭で、一族には代々聖職者の道を歩んだ者が多かった。ハイドは幼いころ病気がちだったため、父と叔母から家庭で教育を受けたという。1867年、父の異動に伴って一家は同じ県のフレンチパークへ移った。そこで地元の老人たちが話すアイルランド語を聞き、幼いハイドは強く心を引かれた。当時のアイルランド語は英語より劣るものとして見下されていたが、ハイドはこの言語にのめり込んだ。14歳のとき、とくに影響を受けた猟場番のシェーマス・ハートが亡くなって打ちのめされ、関心がしばらく薄れたともされるが、その後ダブリンを訪れるうちに、同じようにアイルランド語に関心を寄せる人々がいることを知った。家族からは父のように教会の仕事に就くことを期待されたが、これを退けて学問の道へ進み、ダブリンのトリニティ・カレッジでフランス語、ラテン語、ドイツ語、ギリシャ語、ヘブライ語に通じるようになった。1884年に卒業し、1893年にはドイツ人で、イギリスで育ったルーシー・クルツと結婚して、二人の娘をもうけた。
1880年ごろにアイルランド語保存協会に加わり、1879年から1884年にかけては、筆名を用いてアイルランド語の詩を百篇以上発表した。当初は嘲笑されたアイルランド語の運動も、しだいに多くの支持者を得た。1892年には「アイルランド国民の脱英国化の必要」と題する文章を書き、言語・文学・服装の面でアイルランドは固有の伝統に従うべきだと論じた。1893年にゲール語連盟の創設に加わり、その初代の会長となった。パトリック・ピアース、エイモン・デ・ヴァレラ、マイケル・コリンズといった後の共和主義者たちが、この連盟への参加を通じて政治に目覚めたとされる。しかし運動の政治化が進むことに居心地の悪さを覚え、1915年に会長を退いた。
ハイドはシン・フェイン党や独立運動とは関係を持たなかった。のちに上院議員となったが、カトリック真理協会はプロテスタントであることを理由に反対し、離婚を支持しているとも宣伝した。1925年の上院選挙で議席を失い、その後はユニバーシティ・カレッジ・ダブリンでアイルランド語の教授を務めた。1938年4月、教職を退いていたハイドは、政党間の協議を経て、無投票でアイルランドの初代大統領に選ばれた。デ・ヴァレラも野党党首コズグレイヴも彼を敬愛しており、独裁者になる恐れがない人物であったことなどが理由に挙げられる。天神ひげをたくわえ、温かな人柄で国民に慕われ、アメリカのルーズベルト大統領は「優れたそして博識な老紳士」と評した。国王ジョージ5世とは切手収集について書簡を交わしていた。
1945年6月に任期を終えたが、体調が悪く、故郷の自宅に戻ることはなかった。1949年7月12日の夜、89歳で世を去り、国葬となった。葬儀はダブリンの聖パトリック大聖堂で行われ、当時の宗教規則によりカトリック信徒は国教会の行事に出席できなかったため、閣僚たちは、プロテスタントのノエル・ブラウンを除いて、大聖堂の外から見守った。デ・ヴァレラは出席せず、国教会信徒のアースキン・ハミルトン・チルダースが代理を務めた。
同じ年に亡くなった人物
- フリッツ・ライバー・シニア (1949年没)
- 若槻禮次郎 (1949年没)
- Harry Lott (1949年没)
- バーバル・サーニー (1949年没)
- モーリス・ブロンデル (1949年没)
同じ地域に関係する人物
- フランチェスコ・ジェミニアーニ (1762年没)
- トム・カイリー (1951年没)
- パトリック・ピアース (1916年没)
- ポール・カレン (1878年没)
- チャールズ・ホーヒー (2006年没)