伝記
アルブレヒト2世は、ハプスブルク家出身のオーストリア公である。1298年12月12日に、ドイツ王アルブレヒト1世の四男として生まれた。母はケルンテン公マインハルトの娘エリーザベトで、兄にはドイツ王フリードリヒ美王やオーストリア公レオポルト1世がいた。当時のドイツ諸侯は、次男や三男を各地の司教や大修道院長に送り込もうとしており、アルブレヒトもバッサウ司教に選ばれたが、教皇ヨハネス22世は1317年、理由は明らかでないまま就任を拒んだ。俗界に戻ったアルブレヒトは、1324年にプフィルト伯家の女子相続人ヨハンナと結婚した。1326年にレオポルトが、1330年にフリードリヒ美王が相次いで亡くなり、兄たちの遺児に男子がいなかったため、アルブレヒトと弟のオットー陽気公がハプスブルク家領の共同統治者となった。
1330年3月25日、ウィーンの宮殿でアルブレヒトと会食していたオットーの妃エリーザベトが、突然倒れて亡くなった。毒を盛られたとみられ、アルブレヒトも倒れて一命はとりとめたものの、歩行もままならない身体になった。1335年に母方の叔父ケルンテン公ハインリヒ6世が男子なく亡くなると、オットーとともにケルンテン公位を継いだ。1339年2月にはオットーが急死した。1339年11月には待望の長男ルドルフが生まれ、のちの建設公ルドルフ4世となった。妃は39歳の初産で、領内では噂が立ったが、その後さらに5人の子が生まれて噂は消えた。身体が不自由になってからも、週に1度は領民に正式な謁見を許した。謁見に現れたある農夫が、何も望まない、公爵がご健勝なご様子をこの目で確かめられればそれでよいと答えたという逸話が伝わる。彼は生前から「賢公」と呼ばれた。
アルブレヒトは平和を重んじ、ルクセンブルク家とヴィッテルスバッハ家の対立のなかで、両家の調停役にまわった。皇帝ルートヴィヒ4世がチロル問題で教皇クレメンス6世に破門され、ルクセンブルク家のカール4世が対立王に立てられると、ややヴィッテルスバッハ家寄りの中立をとった。教皇庁に破門の取り消しを働きかけ、破門後も臣下の礼を続けてルートヴィヒ4世の信頼を得たが、皇帝は1347年に亡くなった。翌1348年、長男ルドルフとカール4世の娘カタリーナの婚約が正式に交わされた。一方で、チロルの女領主マルガレーテと内縁関係にあるブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ2世への支援も続け、自分の娘マルガレーテを、二人の息子マインハルトの許婚とした。
1351年にチューリッヒがスイス誓約者同盟に加わると、アルブレヒトは阻止しようと軍を差し向けたが敗れ、すぐにチューリッヒと単独で和解した。この和平でスイスは事実上の独立を果たしたが、彼はこだわりを捨て、1340年のウィーン都市法を皮切りに内政の改革を進めた。貴族と聖職者の免税特権を制限し、ユダヤ人迫害が起こると保護を貫き、迫害が激しかったクレムス市には軍を送って取り締まった。単独統治に入った1339年には税収がすべて債権者のものになっていたが、1350年ごろから好転した。同年11月には家臣を集めて忠誠を誓わせ、家憲を定めて、家臣に君主への抵抗権などを認めた。この家憲により、家臣と外から来たハプスブルク家との結びつきが強まり、同家はオーストリア家と呼ばれるようになった。
アルブレヒトは1358年8月16日にウィーンで亡くなり、自ら創建したガミング修道院に葬られた。家憲に従い、長男ルドルフ4世があとを継いだ。ヨハンナとのあいだには1339年から1351年にかけて6人の子が生まれ。
同じ年に亡くなった人物
- イザベラ・オブ・フランス (1358年没)
- 足利尊氏 (1358年没)
- エティエンヌ・マルセル (1358年没)
- アブー・イナーン・ファーリス (1358年没)
- ギョーム・カルル (1358年)
同じ地域に関係する人物
- ニク・チャウシェスク (1996年没)
- ヨーゼフ・ベーム (1876年没)
- ヨーゼフ・シュテファン (1893年没)
- オットー・カイザー (1977年没)
- ハインリヒ・フォン・ベレガルデ (1845年没)