HISTORICAL PERSON · 1358年没

ジャン・ビュリダン

フランスの司祭・哲学者。運動に関する「インペトゥス」理論を展開して慣性の概念に迫った。「ビュリダンのロバ」の思考実験は彼の名に由来する。

生涯
1358年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(ベテューヌ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン・ビュリダンは、1295年頃に生まれ、1358年に没したとされるフランスの司祭で、中世後期を代表する哲学者の一人である。ラテン語名はヨハンネス・ブリダヌスという。ヨーロッパにおける科学革命の火付け役の一人でもあり、「インペトゥス」の理論を展開して、現代の慣性の概念に迫った。有名な思考実験「ビュリダンのロバ」は彼の名に由来するが、現存する彼の著作にはこの思考実験に触れたものはない。

生まれた場所は、フランス最北部のベテューヌ付近とする説が有力だが、アラス司教区内の別の土地だった可能性も指摘される。生年は1301年より前とされる。パリで学び、パリ大学の教養学部で修士の学位と教授資格を得て、その後は生涯にわたって同学部で教えた。神学、法学、医学の博士号を取って哲学者になる道が一般的だった当時としては異例の経歴であり、修道会にも入らず教区の聖職者にとどまることで、知的な独立を保った。1330年の教皇の書簡には、アラス司教区の聖職者で教養学の修士と記されている。神学を修めた者だけが神学を教え、書くことを許されていたため、彼には神学に関する著作も、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の注釈もない。1340年までには、先輩格の哲学者オッカムのウィリアムと渡り合える地位を築いた。奨学金や俸給を複数得ており、1350年の文書には、大学の援助なしに自活できる教師の一人として挙がっている。

彼にまつわる逸話も多い。恋愛がらみの事件や冒険談がいくつも伝わり、その一つは、麻袋に詰められてセーヌ川に投げ込まれる刑に処せられたが、学生の機転で救われたというものである。フランソワ・ヴィヨンは詩の中でこの逸話に触れている。ただし、これらの話は確認できず、多くが史実と食い違うとされる。研究資金の獲得に異常な才能を示したともいう。

彼の名を後世に残したのが、インペトゥス論である。アリストテレスとその後継者は、物体は外部から力が継続的に加わる場合にだけ運動が続くと考え、投げられた物体は周囲の空気から力を受けて動き続けるとした。これに対しビュリダンは、ピロポノスの注釈やイブン・スィーナーの著作に基づいて、物体は運動の初めに与えられた量を自らの内に持ち、それによって動き続けると主張し、その量をインペトゥスと呼んだ。そして、インペトゥスが自然に散逸するという考えを退け、物体を止めるのは空気抵抗と重力だと断言した。インペトゥスは初速と物質の量に比例するとされ、現代の運動量の概念に近い。この理論は、投射体の運動を定性的ながら正確に説明した。もっとも本人にとっては、アリストテレスへの一つの修正にとどまり、運動と静止を質的に別物と見る基本の考え方は揺らいでいなかった。インペトゥス論は天体の円運動の説明にも使われ、その代表がニコル・オレームである。ガリレオ・ガリレイの研究の露払い的な意義があったと評価される。

ビュリダンは、嘘つきのパラドックスなど複数のパラドックスの解釈も書き残した。歴史文書に最後に登場するのは1359年で、イングランド団とピカルディ団の間の紛争の裁定者として名が挙がり、その後に没したと考えられている。弟子には論理学者のザクセンのアルベルトがいる。1470年代には、唯名論への禁令によって彼の著作は読むことを禁じられた。

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