伝記
ジョージ・バーナード・ショーは、1856年7月26日にダブリンで生まれたアイルランド出身の劇作家・評論家である。若いころから「ジョージ」という名を嫌い、多くの著作でバーナード・ショーの名を用いた。一族は元はスコットランド貴族で、17世紀にアイルランドへ移住したピューリタンの家柄とされ、父ジョージ・カー・ショーは法務省の役人をやめて穀物卸売商を営み、母ルシンダ・エリザベスは地方の紳士階級の出で、勝ち気で芸術を愛する女性だった。姉のルシンダ・フランシスは音楽家となった。ショーはダブリンの学校を転々とし、アイルランド国立美術館で名画に親しみ、音楽教師とともに暮らす母や姉たちのもとで多くの名曲を暗唱するようになった。大学などの高等教育は受けていない。1871年に学校を出るとダブリンの土地仲介業者のもとで働いて有能ぶりを示し、1876年、ロンドンで音楽教師を始めていた母と姉たちを追って渡英した。
ロンドンでは母と親しい音楽評論家のゴーストライターなどをしたが稼ぎはわずかで、父の仕送りと母の収入に頼りつつ、大英博物館や国民美術館に通って知識を広げた。1879年から書き続けた小説は認められなかったものの、1882年にヘンリー・ジョージの講演を聴いて社会主義に傾倒し、1884年にフェビアン協会が設立されるとただちに入会して、シドニー・ウェッブ夫妻らと実行委員や講演で活躍した。1885年にウィリアム・アーチャーの紹介で新聞に書評を書き始め、のち美術批評、音楽批評を担当し、1895年からは『土曜評論』で「GBS」の署名の劇評を発表した。特に有名なのはシェイクスピア評で、偶像化する風潮を揶揄し、作品を大胆に改変する上演も激しく非難したが、いずれもシェイクスピアを熟読し愛するがゆえのことだったという。
戯曲では、アーチャーと合作した『やもめの家』が1892年に上演された。1904年から1907年にかけてのロイヤル・コート劇場の新劇運動では、上演された32作品のうち11篇がショーの作品だった。多忙で健康を害したが、フェビアン協会にいたシャーロット・ペイン=タウンセンドの献身で回復し、1898年に結婚した。1914年にウェスト・エンドで初めて興行的な成功を収め、1925年にノーベル文学賞を受けた。初めは固辞していたが、賞金を寄付する条件で受賞したという。『ピグマリオン』は1938年に映画化されて彼はアカデミー脚色賞を受け、のちにミュージカル『マイ・フェア・レディ』にもなった。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの創設にも尽力した。選挙への立候補は幾度も固辞したが、セント・パンクラスの区議会議員には無所属で選ばれ、ナイトの称号の授与も拒んだ。1881年、25歳のときに菜食主義へ転じ、以後それを貫いた。1933年には妻とともに来日し、能に関心を示している。
ファシズムについては、反資本主義的な本質を見抜いたとしてムッソリーニに共感を示し、反ファシズム運動には加わらず、心理学者アルフレッド・アドラーから猛烈な抗議を受けた。ソ連を理想の国家と評したことも、保守層から非難された。1943年に妻が亡くなり、1950年には自宅の庭で樹木の手入れ中に転んで足を骨折した。手術後に腎臓の浮腫が悪化し、同年11月2日に94歳で世を去った。遺灰は妻の遺灰と混ぜ合わされ、庭園に納められた。
同じ年に亡くなった人物
- ディヌ・リパッティ (1950年没)
- ヴェルナー・ハーゼ (1950年没)
- ハインリヒ・マン (1950年没)
- リアーヌ・ド・プジー (1950年没)
- エリエル・サーリネン (1950年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジョージ・アームストロング (2000年没)
- ジェームズ1世 (イングランド王) (1625年没)
- アルフォンス・ルグロ (1911年没)
- William Stewart (1950年没)