伝記
エミール・ヤニングスは、1884年7月23日にスイスのロールシャッハで生まれたドイツの俳優である。本名はテオドール・フリードリヒ・エミール・ヤネンツで、一時はニューヨークのブルックリン生まれと称していたが、実際にはスイス東部のボーデン湖畔の町で生まれたとされる。父はアメリカ出身で、母はドイツ人またはロシア系ドイツ人と伝えられ、両親は家庭用品の製造に携わっていた。生後10か月ほどで一家はチューリヒに移り、1890年代の初めにはドイツのゲルリッツに居を定めた。
少年時代は気ままで、16歳のとき家出をして船乗りになり、ハンブルクで大洋航路の調理人の助手になった。しかし幻滅して家に連れ戻された。その後、ゲルリッツの市立劇場の小道具係との出会いから演劇の世界に目覚め、すぐに劇団に入った。18歳でプロの舞台に立ち、チューリヒやドレスデン地方で古典演劇を学んだ。巡業の役者として劇団を渡り歩く日々は十数年に及び、この間にのちの映画監督エルンスト・ルビッチと出会っている。1906年にはドイツ演劇の大御所マックス・ラインハルトに招かれてベルリンのドイツ劇場に出演し、『ファウスト』のメフィストを演じた。この頃までにドイツ演劇史に残る俳優となったといわれ、劇場で知り合った女優ルーシー・ヘフリヒと結婚したが、1923年に離婚して、コンラート・ファイトの元妻グッシー・ホルと再婚した。
映画界入りは1914年で、はじめは決まりきった役しか回ってこなかったものの、1919年には歴史劇や文芸作品で大いに名を挙げた。友人のルビッチが監督に回ると、その初期の作品で主役を務めている。1920年代中頃には国際的な知名度を得て、『ヴァリエテ』や『最後の人』などで世界的にも偉大な映画俳優と認められるようになった。『最後の人』はムルナウ監督のもと、字幕がほとんどないことで無声映画史に残る作品とされる。
1927年にアメリカのパラマウント映画と契約してハリウッドへ渡り、第1作『肉体の道』と第2作『最後の命令』の演技で、第1回アカデミー賞の主演男優賞を獲得した。ハリウッドでの出演は全部で6本とされる。しかしトーキーの波が急速に押し寄せるなか、ドイツ語訛りが強く、英語をほとんど話せなかった彼は、アメリカでの経歴を終えざるを得なかった。1929年にドイツへ帰り、1930年にはジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『嘆きの天使』に、まだ新人のマレーネ・ディートリヒとともに出演した。この作品はヤニングスの出演作中で最大のヒットとなったが、すでに評価の定まっていた彼にとっては、最後の輝きとなった。
1933年にナチスが政権を握ると、そのプロパガンダの一翼を担い、以後の約10年はナチスの政治思想を擁護する作品を作り続けた。一方で、党員であったことはなかったともいわれる。ゲッベルス宣伝相は1938年に勲章を贈り、彼の作品を製作する撮影所を与えた。1941年には「帝国の芸術家」として讃えられた。第二次世界大戦後は連合軍のブラックリストに載り、新しく映画を作ることはできなくなった。1950年1月2日、オーストリアで癌のため65歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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