HISTORICAL PERSON · 1362年没

アンナ・シフィドニツカ

神聖ローマ皇帝カール4世の3番目の妃。1353年に14歳で結婚し、ボヘミア王妃、ローマ王妃、1355年には皇后として戴冠して、ボヘミア王妃で最初の皇后となった。1362年に出産中に23歳で早世した。

生涯
1362年没
死亡地
チェコ共和国(プラハ)
出生地
ポーランド共和国(シフィドニツァ)
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

アンナ・シフィドニツカは、1339年に生まれ、神聖ローマ皇帝でボヘミア王のカール4世の3番目の妃となった人物である。ポーランド語ではこの名で呼ばれ、ドイツ語ではアンナ・フォン・シュヴァイトニッツという。シフィドニツァ公ヘンリク2世の娘で、母は、ハンガリー王カーロイ1世の長女カタジナである。

アンナが4歳のとき、父が死去し、子のない父方の伯父であるシフィドニツァ公ボルコ2世が、彼女の後見人を引き受けた。アンナは、母の故国ハンガリーのヴィシェグラードに戻った母のもとで引き取られ、そこで教育を受けた。11歳になると、カール4世の生まれて間もない長男で、跡継ぎであるヴェンツェルと婚約した。ところが、乳児のヴェンツェルと、その母であるアンナ・フォン・デア・プファルツが相次いで世を去った。寡夫となったカール4世は、息子の嫁になるはずだったアンナに、自ら求婚した。この政略結婚は、カール4世と、亡き父でボヘミア王のヨハンが前々から企てていたもので、ボヘミアに国境を接するシロンスクの諸公国を支配下に置こうという狙いがあった。アンナの母方の叔父にあたるハンガリー王ラヨシュ1世は、のちにポーランド王を兼ねるが、姪の結婚を後押しするため、シフィドニツァ公国に対する自らの要求権を放棄し、結果としてルクセンブルク家の野心を利することになった。

花婿と花嫁は親戚どうしだったため、プラハ大司教アルノシュトの執り成しで、教皇インノケンティウス6世が特別の赦免を与えた。二人は1353年5月27日に結婚した。このときアンナは14歳、夫のカール4世は37歳であった。結婚式には、後見人のボルコ2世をはじめ、オーストリア公アルブレヒト2世、ハンガリー王ラヨシュ1世、ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ3世、ザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世が出席し、ポーランド王カジミェシュ3世の使節やヴェネツィア共和国の使節も加わった。

1353年7月28日、アンナはプラハで、アルノシュト大司教の手によってボヘミア王妃として戴冠した。翌1354年2月9日には、アーヘンでローマ王妃の冠を授けられた。1355年4月5日には、カール4世がローマのサン・ピエトロ大聖堂で神聖ローマ皇帝として戴冠する儀式の途中で、アンナも皇后として戴冠した。これにより、アンナはボヘミア王妃のなかで初めて皇后になった女性となった。

1358年、アンナは娘を産み、この王女は、父方の祖母エリシュカにちなんでエリーザベトと名付けられた。1361年2月には、ニュルンベルクで、待望の王子ヴェンツェルを産んだ。帝国を継ぐことになるこの王子は、聖セバルドゥス教会で、プラハ、ケルン、マインツの大司教たちから洗礼を受けた。しかし1362年7月11日、アンナは出産中に23歳で世を去った。1年後に控えた息子のローマ王としての戴冠式を見ることはなく、聖ヴィート大聖堂に葬られた。翌1363年、カール4世は、エリーザベト・フォン・ポンメルンを4人目の妻に迎えた。シフィドニツァ公国とヤヴォル公国は、アンナの伯父ボルコ2世が1368年に死ぬと、まもなくボヘミア王国に併合された。

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