伝記
マインハルト3世は、14世紀のチロル伯で、上バイエルン公でもあった人物である。1344年2月9日にランツフートで生まれた。ヴィッテルスバッハ家の出で、上バイエルン公ルートヴィヒ5世とチロル女伯マルガレーテの次男にあたり、チロルのゴリツィア家の流れをくむマインハルト家の最後の子孫でもあった。祖父は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世である。父のルートヴィヒ5世は皇帝の長男で、1323年にブランデンブルク辺境伯領を与えられたが、のちにバイエルンの相続に力を注いだ。1342年にはマルガレーテと結婚したが、マルガレーテは先夫ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルクとの婚姻がまだ解消されていなかった。このためルクセンブルク家の敵意を買い、教皇クレメンス6世から破門された。1347年に皇帝ルートヴィヒ4世が没すると、ルートヴィヒ5世は帝冠を得られず、帝位はルクセンブルク家のカール4世に移った。
ヴィッテルスバッハ家とハプスブルク家が和解に向かうなかで、マインハルトはウィーンのハプスブルク家の宮廷で育てられた。成人すると、1359年にパッサウで、父の同盟者であるオーストリア公アルブレヒト2世の娘マルガレーテと結婚した。結婚の日付は1358年6月とも伝わる。この機会に両親は破門を解かれた。1361年に父が急死すると、17歳のマインハルトは上バイエルンとチロルを相続した。病弱だったうえ、バイエルンの貴族の影響を強く受けた。領土をめぐって、義兄のオーストリア公ルドルフ4世と叔父のバイエルン・ランツフート公シュテファン2世が対立し、マインハルトは叔父やプファルツ系の従兄弟たちの攻撃も退けなければならなかった。叔父に引き取られてミュンヘンに連れて行かれ、一時は拘束されたともいう。アイヒシュテットの司教侯の宮廷に逃れたとも伝わる。最後はルドルフ4世の手で、母の故郷のチロルに戻された。
マインハルト3世は1363年1月13日、子のないまま、メラン近郊のチロル城で亡くなった。直後にルドルフ4世がチロルへ急行し、母のマルガレーテにチロルを譲渡させた。マルガレーテは、ゴリツィア伯マインハルト6世とヴィッテルスバッハ家が起こした相続の要求を退けた。これに対し、上バイエルンを継いでいたシュテファン2世が異議を唱え、チロルに侵攻して戦争になった。1369年に和睦が成立し、シュテファン2世は多額の補償金と引き換えにチロルから手を引いて上バイエルンを手に入れ、ハプスブルク家がチロルを領有した。マインハルト3世は、シュタムス修道院の教会に葬られたと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- ブランカ・アヴ・ナムール (1363年没)
- 陳友諒 (1363年没)
- コスタンディン5世 (1363年没)
- コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・ナバラ (1363年没)
- Callistus I of Constantinople (1363年)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・ブラッスール (1972年没)
- マリーア・エリザベッタ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ (1856年没)
- アルチーデ・デ・ガスペリ (1954年没)
- オレステ・バラティエリ (1901年没)
- ヴィルヘルム・ディルタイ (1911年没)