伝記
後村上天皇は、1328年(嘉暦3年)に生まれ、1368年3月29日(正平23年3月11日)に没した、日本の第97代天皇であり、南朝の第2代天皇である。後醍醐天皇の第7皇子で、母は阿野廉子(新待賢門院)、数多い皇子らの中でただ一人の天皇となった。諱は初め義良といい、即位後に憲良と改めた。
1333年に父の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を始めると、義良親王は北条氏の残党の追討と東国武士の帰属を目的に、側近の北畠親房と、その長男で陸奥守の北畠顕家に奉じられ、陸奥国府の多賀城へ向かった。1334年5月に多賀城で親王となり、東北の南朝方の武将を束ねる奥羽将軍府を創設した。1335年12月、足利尊氏を追討するため、顕家らとともに多賀城を発して京都方面へ進み、翌1336年1月に京都で尊氏軍を破って九州へ敗走させた。同年3月に元服し、三品陸奥太守に叙任された。しかし尊氏は九州で態勢を立て直し、湊川の戦いで楠木正成を破って京都を奪い、光明天皇を立てて北朝を開いた。後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開いた。
1337年に奥羽将軍府が北朝軍に脅かされると、親王らは府を福島の霊山に移した。同年12月に鎌倉を奪い返し、1338年1月には青野原で足利方を破って、吉野へ入った。しかし同年5月に石津の戦いで北畠顕家が戦死し、閏7月には新田義貞も藤島で戦死した。9月、義良親王は宗良親王や北畠親房らとともに三たび陸奥を目指して伊勢の大湊を出たが、暴風雨にあって一行は離散し、親王の船は伊勢に漂着した。1339年3月に吉野へ戻って皇太子となり、8月15日、後醍醐天皇の譲位を受けて後村上天皇として即位した。
天皇は若いうちから、畿内近国の寺社や武士に綸旨を精力的に発した。1348年1月、足利方の高師直に吉野を襲われて紀伊の花園に避難し、のちに大和の賀名生へ移った。1351年には足利尊氏が南朝に降伏し(正平一統)、天皇は尊氏に直義・直冬の追討を命じ、北朝の崇光天皇を廃した。翌1352年には京の回復に成功し、三上皇と廃太子の直仁親王を男山に連行したが、足利方の反撃で京を放棄し、5月に義詮の軍に敗れて賀名生へ帰った。1354年には三上皇と直仁親王を河内の金剛寺に入れ、自身も同寺へ移った。1355年1月には、南朝に帰順した直冬を立てて京の回復を目指したが、尊氏・義詮の軍に敗れた。1357年2月には光厳・崇光両上皇と直仁親王を京都へ返し、1359年12月には観心寺に行宮を移した。1361年12月に楠木正儀らが一時的に京を回復したが、同月のうちに撤退した。1367年に幕府との和睦交渉が行われたものの、決裂している。翌1368年3月、住吉大社宮司津守氏の住之江殿で崩御した。41歳であった。
和歌は二条為定に師事し、准勅撰集『新葉和歌集』には最多の100首が入った。孤峰覚明について禅を極め、琵琶や箏、書にも長けていたとされる。第1皇子の寛成親王は長慶天皇となり、のちに後亀山天皇となる熙成親王も皇子である。陵は大阪府河内長野市の観心寺にある。1911年(明治44年)、明治天皇によって南朝が正統とされ、歴代天皇に列された。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン (1368年没)
- ギー・ド・ショーリアック (1368年没)
- イブン・バットゥータ (1368年没)
- ライオネル・オブ・アントワープ (1368年没)
- ボルコ2世マウィ (1368年没)